case4:「食糧」
ここはとある砂漠の国―――。
正確には砂漠と化した国。
それもここ数年で急激に砂漠化が進んでいた。
不自然なほどに。
理由は至って簡単。
森林の伐採。
山地の切崩し。
それに伴う自然災害。
ごくごくありきたりの人為的な原因である。
そんな中、人々は飢えや渇きに苦しんでいた。
自業自得という言葉があるが、苦しんでいる人の大多数はむしろ自然破壊をやめるべきだと訴えてきた。
砂漠を造り、住む場所を奪い、人々を苦しめるほんの少数の人間が私腹を肥やしている。
さらには奪い取ったもので兵器を生み出し、苦しむ人々のわずかに残ったものさえも次々と奪っていく。
この砂漠に暮らす人間はいつも食糧を求め、水を求め、住む場所を求め、生にしがみついていた。
「お腹が空いたのかい? 我慢してね、皆お腹が空いてるのさ」
母親は食糧を求めて砂漠を彷徨っていた。
ここ最近、国から支給されるはずの食糧が全く届いていない。
「大丈夫、明日になったら沢山食べれるから。それまで我慢してね。
大丈夫、大丈夫……」
母親はオウムかインコのように大丈夫と繰り返しそのやせ細った腕に抱いた下腹部の膨れた子どもに対してつぶやいていた。
腕に抱けるほどの大きさのその子どもはもうすぐ十歳になろうとしていた。
もうこの辺りには食べ物のかけらさえ落ちていなかった。
地面にあるのは岩や砂ばかり。
あんな事さえ起こらなければ―――。
母親は今更どうしようもない事を嘆いていた。
あんな事は早く終わって欲しい。
あれさえなければ何の心配もなしにこの街からも出られるのに。
あれさえなければ食糧ももっと手に入るのに。
そうして好きなだけお腹いっぱい食べられるのに。
母親がこの国を出られない理由、
食糧が足りない理由がひとつあった。
それはあまりにも重く、大きな理由であった。
道端に男が一人、うつ伏せで倒れていた。
動かない。
気になって母親はその男に話しかけた。
「もし、どうなされました。生きていらっしゃいますか」
男の返事はない。
ハエが寄ってきた。
そのハエが男の首筋にとまった。
それでも男は反応しない。
これはやはり死んでいるのか。
ここにまた一人、飢えの犠牲者が出た。
これでもう何人目かもわからない。
母親は自分の子どもや自分もこのままではいずれこの男のように飢えの犠牲者となってしまうことを知っていた。
早く、食糧を少しでも見つけなければ。
しかし、何処に行けば見つかるのだろう。
見当もつかないままその場を離れ、再び歩きはじめた。
母親が去った後、男はむくりと起き上がった。
どうやら気を失っていただけのようだった。
起き上がって男も歩き出した。
腹の音を響かせながら。
食糧。食糧。食糧。食糧。食糧。
もはやその男には食糧のことしか考えられない。
とにかく何かを食べなければ。
しかしもう体がまともに動かない。
誰か食糧を恵んでくれ……。
この街では誰にも届かない願いを声にならない声で叫んだ後、
ニ、三歩歩いて男は再び倒れた。
今度は本当にこときれてしまった。
何匹ハエがたかろうとも彼はもう二度と起き上がらないだろう。
子どもは力なく何処を見るでもなく目を開けている。
目を閉じる力すらないのだ。
腕や足はだらりと体にただくっついているだけ。
口の中はカラカラに渇いている。
母親も似たような状態であった。
それでも、何とか動く事はできる。
動けるうちに食糧を。
せめてこの子には何か食べさせてやらないと今にも死んでしまいそうだ。
あわよくば、自分も食べられるほどの食糧を。
母親はそう考えながら足を引きずるように歩いていた。
「もし、そこのお方……」
母親が振り向くと一人の老人が岩に寄りかかっていた。
おそらくその老人が話しかけてきたのだろう。
「残飯でも構わない。何か食べ物を分け与えてはくれませんか……」
「申し訳ございません。あれば分け与えることができますが、ないものはどうしようもございません。
むしろ私の方が何か恵んで頂きたいほどなのです。本当にごめんなさい」
「食糧がない……? それではあなたが大事そうにその腕に持っている物はなんなのですか?」
ショックだった。
自分の子どもを物と呼ばれた。
「この子は私の子どもでございます。この子に食べさせる食糧を求めて彷徨っているのです。
食糧ではございません」
「お、お。そうか。これは失礼した。お子さんだったか。ああ、そういえば腕がぶら下がっておりますな。
いやあ、……腹が減るとなんでも食糧に見えていかんですな。……はっはっは……。
―――……」
老人は喋らなくなった。
目は開いたままだが、頭は下を向いている。
母親の方は見ていない。
その様子を見て、母親はその老人が死んだ事を悟った。
「申し訳ございませんでした……」
もはや永遠に返事をしないであろうその老人に一言だけ謝ってから母親は再び歩きはじめた。
もう母親も限界が近かった。
手足が重い。
脳が考える事を拒む。
十キロもない我が子が重い。
空を見上げるとすでに暗くなっていた。
仕方がない。今日はここで寝よう。
もはや建物もまともに残っていないこの街では、何処で寝ようとも同じだった。
「明日になれば食糧が届くからね。それまで我慢してね。大丈夫、大丈夫」
自分では閉じる事もできない我が子の目をそっと閉じてやった。
翌日も食糧は届かなかった。
このままでは食糧を待っている間にあの老人のように、あの男の人のようになってしまう。
なんでもいい。口に入れるものを。
木の根だって構わない。
人だかりができていた。
人だかりといってもほんの四、五人だったが、
それでもこの何もない街では珍しいことだった。
皆地面にうずくまっている。
その様子を見ているとどうも何か食べているらしい。
よかった。この人達から少しでも食糧を分けてもらえれば……。
「すみません、何を食べているのか存じませんが、ほんの少し、この子に食べ物を恵んでやってはもらえませんか……」
息も絶え絶えに母親はその人達に話しかけた。
その内の一人の男が振り返った。
その男の口にはべったりと真っ赤なものがついていた。
母親は叫ぼうにもそれだけの体力が残っておらず、口を死にかけの魚のようにぱくぱくさせていた。
呆然としている母親にその男は話しかけた。
「ああ、いいぜ。少しだけならな。どの部分でもいいぜ。とっていきな」
彼らが食べていたものの正体。
人間。
人間を皮膚からかぶりついて貪り食っている。
「うわ、骨がひっかかっちまった」
「胃の中にも何か残ってるんじゃないか?」
「ばーか、残ってるわけねえだろ。こいつは飢えで死んだんだぜ」
「脳ミソって本当にアレの味がするのか? 喰ってみようぜ」
「内臓はあんまり喰わねえ方がいいぞ。不味くて喰えたもんじゃない」
なんということだろう。
何気ないことのように狂った会話をしている。
「どうした、おばさん。喰わねえのか?」
「な、なぜそんな……」
「何故って? こいつは死んでたんだよ。だから俺らがどうしようとも構わねえだろ」
「そんな……。貴方達は何をしているか分かっているのですか!?
とても人間のすることとは思えません!」
「じゃあ聞くが、何故こんな絶好の食糧を放っておくんだ? もう動かねえんだから喰ったっていいだろ。
他の生物だってやってる事だぜ。共食いって言うだろ」
「だからって……」
もはや何も言えなかった。
あまりにもショックが強すぎた。
母親は後ずさるようにその場から離れていった。
「おーい、いらねえのかい? 格別美味いって訳じゃねえけど腹はふくれるぜー」
もう聞きたくなかった。
それでも彼らの会話は耳に入ってくる。
「目玉は結構軟らかいな」
「早く喰っちまえよ。ハエがたかってくるからな」
「これであとニ、三日は大丈夫だな」
何も食べていないのに吐き気がする。
母親はとにかく歩いた。
何かまともな食糧を。
ふらつきながら空を見上げると、もう日が傾いていた。
もはやこれ以上動く事はできない。
母親は天に手をかざした。
「おお、神様、何か食糧を私めらにお恵みください。
この子はまだ十にもなっておりません。このままではあまりに不憫です。
先程などは人間が人間を貪っておりました。この街はもはや正気を保っていられないでしょう。
どうか、どうか救いの手を!」
母親は祈った。
もはや神にすがるしかない。
目を閉じて一心不乱に祈り続けた。
先刻見たものを忘れたいがためだったのかもしれない。
人間が人間を喰うなどあってはいけない。
これでは他の動物となんら変わらないではないか。
こんな仕打ちは耐えられない。
自分達は何も悪くはないのに。
悪いのはここを砂漠にしてしまった奴等なのに。
そして、あんな事を起こしてしまう奴等なのに!
どうか、神よ、罰するのならば奴等を罰してくださいませ!
母親は一晩中祈り続けた。
自分の為に。我が子の為に。
朝、母親が目を開けると、奇跡が起こっていた。
一陣の風が吹いたかと思えば、砂が吹き飛び、中からひとつのパンが顔を出した。
母親はそれを拾い上げ、砂をはらった。
空腹による錯覚ではない。本物のパン。
なんという奇跡か。そこに食糧がある。
「神よ! ありがとうございます! これで望みが繋がりました!
貴方の慈悲の御心、感謝いたします!」
母親は嬉々としてそのパンを子の口へと運んだ。
「さあ、お食べ。これで少しは持つはずだよ。これでまた明日から食糧を探しにいけるよ」
子どもの口にパンを押し込んでいく。
子どもにはもう口を動かす力も残っていないだろうから細かくちぎって喉の奥に押し込んだ。
「さあ、もっとお食べ」
次々とパンを押し込んでいく。
「どうしたんだい? 食べれば少しは動けるはずだろう?」
子どもは依然動かない。
当然だった。
死人は食糧を求めない。
喰う事などできない。
子どもはすでに死んでいた。
皮肉にも、母親が食糧を見つけたその時に死んだのだった。
それを知った母親は泣き叫んだ。
空腹と渇きでもはや出ないと思っていた涙が次々とあふれた。
「神よ! 何故このような仕打ちをされるのです! これではあんまりです!」
母親は半分ほどになったパンを持ったまま叫び続けた。
一時間ほどたっただろうか。
すでに母親の力は尽き、砂に顔をうずめていた。
このままでは自分も死んでしまう。
仕方がない。
パンを自分の口に押し込んだ。
美味い。
舌がとろけそうだ。
こんなに美味いパンは食べた事がない。
ああ、それなのにもうなくなってしまった。
もっと食べたい。
もっと。
急にもっと沢山のものを食べたくなった。
もっと沢山食べたい。
お腹いっぱいに。
何かないか。
母親は今しがた死んだ息子の方を見た。
一ヵ月後、ようやく食糧が届いた。
どうやら軍の分が足りなくなっていたらしい。
仕方がない。
この戦争はいつ終わるのか分からないのだから。
今日も爆弾の音、銃の発砲音、飛行機の飛ぶ音。
うるさくて仕方がない。
今日は五千人死んだらしい。
何の罪もない人が八割だった。
母親が街を出られなかった理由。
それは、戦争だった。
そのせいでその街から離れるとたちまち殺されてしまうからだ。
なんにせよ、ようやく食糧が届いた。
これでまたしばらくは生きていけるだろう。
母親は安堵した。
ところが。
突然敵軍の兵士が銃を持って街に入り込んできた。
銃声が轟く。
その音につられるように人は踊り、倒れていく。
たった五分でその場所には山ができた。
屍肉で造り上げられた山が。
どうやら食糧の供給の際を狙っての攻撃らしかった。
母親は奇跡的に生きていた。
死体の下に隠れていたからだろうか。
体を起こして辺りを見回す。
どうやら敵軍は去ったらしい。
周りにあるのは死体ばかり。
食糧が。
また食糧が増えた。
これでしばらくは生活に困らないだろう。
そう思うと母親は嬉しくなった。
そして、
一ヶ月ほど前についた血も乾いて黒くなっていたその口の端が吊り上がった。
死体の山の一部になっていた男が、一枚の紙を握っていた。
母親は、その紙を取り払って、その男の指にかぶりついた。
case4
END
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