case3:「焔」
「こっちも駄目……。どうすればいいの」
シホは炎の中を逃げ惑っていた。
そこは図書館だった。
シホはいつものように本を読んでいた。
シホは本が好きだった。
SF、ミステリー、ファンタジー、推理小説。
どんなジャンルでも好きだったし、なんでも読んだ。
もっと言えば漫画なども好きだった。
読む、と言う行為そのものが好きと言えなくもなかった。
今日もこの場で何冊も本を読みあさっていた。
今回はファンタジーに絞って読んでいた。
ファンタジーは人々に夢を与えてくれる。
現実がどんなに汚れていても、それを読んでいる間だけは清らかなものが流れ込んでくる。
いつしかシホは物語の中に引きずり込まれるような感覚におぼれていた。
一度入り込めば抜け出ることは叶わない幻想。
自分が物語の登場人物になったような感覚。
こんな世界に行ってみたいな―――。
時間はあっという間に過ぎていった。
もう何冊目になったのか分からないほどの数の本を読み終わった。
朝早くに来たはずなのに外はすでに西日だった。
やがて図書館の館長がやってきてそのうっすら肌の見えた頭をかきながら言った。
「随分長いこと読んでるねぇ。このご時世に本なんか読んでもあまり意味はないんじゃないかい?」
「えへへ、私もそう思います。でも、私、本を読むのが大好きだから。それが生き甲斐みたいなものなんです。
意味なんてなくてもいいんです。今のうちに本を読めるだけ読んでいたいんです。」
「そうかい、そいつは嬉しいことを言ってくれるねえ。わしも本が好きだからこの職についたみたいなもんでね。
どうしても離れられねぇんだ。本ってヤツは色々なものを与えてくれる」
「はい、知識、生き方、夢……。それになんだかとても大切な事を教えてくれるんです。
それが何か……は分かりませんが、読み終わった後に胸にこみ上げてくるものがあるんです」
「ふっふ、若いのに面白いねえ。そうさ、本は大切なものをいくつも教えてくれる。
だがな、それを作ったのは他でもねぇ、人間さ」
館長はシホの隣に座った。
「人間ってヤツはどうにも救えねぇ。今のままだと間違いなく滅びるだろうな。馬鹿なんだ、馬鹿。
どいつもこいつもやれ殺し合いだ、やれ騙し合いだ、同じ人間として恥ずかしい。
……でもな、人間はほんのわずかだがとんでもなく素晴らしいものを創り出すことができる。
雨風をしのげる家を創った。夜を照らせるように電球を創った。心を弾ませるために音楽を奏でた。
道を切り開くために爆弾を創った」
「爆弾が、道を切り開く? あれはただの人殺しのための道具だと思うんですが……」
「ああ、爆弾ってのはな、創り出された当初はトンネルを作るために重宝されたそうだ。
創り出した本人もこんなことになってあの世で嘆いてるかもしれんなあ。
とにかく、だ。そんな素晴らしいものを創り出した。本もその内のひとつなんだな。
こんなに馬鹿で救いがねぇどうしようもない種族だが、どうしてもそこんところが嫌いになれねぇんだな。
できるなら滅びて欲しくもないし、これ以上馬鹿な真似はやめて欲しいもんさ。戦争なんて以ての外だ」
「そうですね……。なによりこの本のように素敵な話を創れる人がいなくなってしまいますもんね。
皆、どうして戦争をやめられないんでしょう。皆、平和を望んでいるはずなのに……」
館長はため息をひとつついて言った。
「嬢ちゃん、そりゃあな、ケンカが足りねえんだよ」
シホは首を傾げて言った。
「ケンカ? どうして戦争を止めるのにケンカが必要なんですか?」
「戦争ってのは政治家の勝手な言い争いから生まれるのがほとんどだろう?
そんなに気にいらねぇんならてめえらだけで殴り合ってりゃいいんだよ。
奴等はてめえの拳も振り上げられねえ腰抜けなんだ。
言ってみりゃガキがケンカに大人を呼んできて争わせるのと変わりゃしねえ。
そうだ。ガキのケンカなんだよ。戦争ってヤツは。
そんなことするぐらいなら二人ともぶっ倒れるまで自分で殴り合うべきだと思わないかい?
そんで二人ともすっきりした所でもう一回話し合うんだ。
そうするだけでも随分違うはずだぜ。いくつ戦争を回避できるかね。
話し合うってのも少し変えてみるのも良いかもしれねぇな。かたっくるしいのは抜きにしてよ、
一日ゆっくり語り合うんだよ。温泉にでもつかりながらよ。そうすればお互いの考え方もよく分かるんじゃねぇか?
もちろん考え方が違ってケンカになるかもしれない。それもいい。拳を交えりゃきっと分かり合える。
互いを理解するってのは話し合いの上で一番大切なことだしな。きっとそういうのが平和を創っていくんだろうな」
シホは納得したようにゆっくりと頷いた。
「そうかもしれませんね。国の武力なんてものに頼らず、彼ら自身で決着を付けるべきだと思います。
戦争なんて勝ちも負けもないはずです。きっと戦争を起こす事そのものが人間の敗北なんでしょう」
「ふっふ、面白いことを言う。そうか、戦争が起これば人間の負け。そうかもしれんな。
じゃあ嬢ちゃん、平和になれば誰の負けなんだい?」
「うーん、よく分からないけれど……。誰が負けとか、そういうのじゃなくて、
人間の勝ち、なんだと思います。敗者のいない勝利なんてものがあれば、ですけど」
「はっはっは! 敗者のいない勝利か! そいつは面白い!」
館長は図書館なのに大声で笑っていた。
「そんなの聞いたこともないですけどね」
「いいじゃねえか。それで平和になればしめたもんさ」
「えへへ、そうですね。……館長さん、他の人みたいに頭ごなしに否定したりしないんですね。
私のまわりにいる人は皆、私が何を言っても耳を傾けてもくれないのに」
「そいつはお互い様さ。嬢ちゃんだってこの老いぼれの話に付き合ってくれたんだ。
わしの話をちゃんと聴いてくれたのは嬢ちゃんがはじめてかもしれねぇ。
今日は話し相手になってくれてありがとうよ。
嬢ちゃんさえよければいくらでもいてくれよ。好きなだけ本を読むといい。
なんなら泊まってってもいいんだぜ。客もいないからな」
「はい、ありがとうございます!」
館長の冗談交じりな台詞に図らずも嬉しくなった。
外は真っ赤に晴れた空だった。雪はもう溶けてしまったらしい。
図書館にはシホと館長しかいなかった。
話を終えた館長は掃除に行ったようだった。清掃員もいないらしい。
シホはまた本を読み始めた。一人の勇者が、魔女を討伐しに行くが、その魔女と恋に堕ちてしまうというストーリーだった。
恋に堕ちた勇者が魔女を殺す事をためらい、説得を試みている場面だった。
ことり
顔を上げると館長が笑顔でそこにいた。
温かいお茶をいれてくれたらしい。
「あ、ありがとうございます」
「いいってことよ。毎日来てくれるお客様へのサービスさ。他の人には内緒だぞ」
そのお茶を飲んだシホは、心も体も温まったような気がした。
自然と笑顔がこぼれた。
シホが開いているページには幸せそうな勇者と照れ臭そうな魔女が手をとり合っている挿絵が載っていた。
それから二時間ほどした頃だった。
シホは物語を全て読み終わった。
物語のラストでは魔女が子どもに勇者と出会った頃の話をしていた。
シホは物語の余韻に浸っていた。
魔女は本当はすごく心優しい人だったんだなぁ。勇者にはそれが分かってたのかなぁ。
それとも恋に堕ちてから分かったのかな? 二人が結ばれてよかったなぁ。
そんなことを考えていた。
ぼうっ
ぼんやりしていたシホの目に映ったのは、ゆらゆらゆれる赤いカーテンだった。
風に揺れるその姿は、まるで生きているようだった。
光を遮るカーテンはそれ自体が光っているかのように明るい色をしている。
赤いカーテン? あそこにあったカーテンは白かったと思うんだけどなぁ。
カーテンが急激に短くなっていった。
違った。カーテンじゃない。あれは……。
炎。炎がまるでカーテンのように揺れている。
しかし、それは突如踊り狂うように窓を燃やし始めた。
「火事だ!」
すでに炎は図書館を包み始めていたらしい。
すでに暗くなっていた空には飛行機が飛んでいた。
図書館はその巨大な佇まいにも関わらず信じられない早さで炎に包まれた。
逃げなければ。
シホは最上階にいた。急がなければ階段が焼け落ちてしまう。
つい今しがた読み終えた本を抱えてその部屋を出た。
そうだ、館長さんは?
すでに外に逃げたのだろうか。それとも、まだ図書館の中に?
「館長さん! 館長さん!」
シホは自分の身はもちろんの事、たったニ、三分話しただけの館長のことが気になった。
「どこにいるの!? 館長さん! 火事なの!」
いくら叫んでも館長は返事をしない。やはりもうすでに逃げてしまったのだろうか。
それならば後は自分が逃げなければ。
「駄目、この道もふさがれてる」
時折黒色にもなる炎がシホの行く手を遮る。
シホは炎の迷宮をがむしゃらに突っ走った。
途中、何冊も本が燃えているのが見えた。
悲しかった。人類の素敵な発明が燃えている。
それでも逃げなければ。他の本を助けられないのならせめてこの本だけでも外に。
煙を吸わないように低い姿勢で、口をハンカチで押さえながら。
壁も天井も真っ赤に染まる。
熱が迫ってくる。喉の奥まで焼けてしまいそうだ。
いや、それどころか頭から溶かされてしまいそうだった。
所々扉の開いた部屋があった。
やはり何冊も本がある。それも焼け落ちてしまうだろう。
ああ、あの本、今度読んでみようと思ってたのになぁ。
あの本、面白そうだなぁ。いつか読めないかなぁ。
ああ、火が燃え移っちゃった。
どんどん燃えてしまう。
まだ読んでない本も沢山あったのになぁ。
もっともっと読んでいられると思ったのになぁ。
燃えていく本を思いながらシホは階段を駆け下りた。
なんとか地上階までたどり着いたシホだったが、そこはもはや足の踏み場もないほどだった。
柱は倒れ、床から火が立ち込めている。
本当にいつも来ていた図書館なのだろうか。
本は全て灰になり、装飾品は炭になっていた。
燃え盛る炎はじきにこの空気さえ燃やし尽くしてしまうんではないかと思えるほどの勢いだった。
そこにある色は赤と黒だけだった。
シホは柱の下に見覚えのある頭を見つけた。うっすら肌の見えた頭を。
数時間前のことがフラッシュバックのように思い出される。
周りの炎で熱されたはずのシホの背中に今まで感じた事のないような寒気が感じられた。
動かない。どうしたのだろう。
逃げていたのではなかったのか。
シホは悲鳴を上げた。
「館長さん!」
全く返事がない。意識はもう無いらしかった。頭からおびただしい量の血が出ている。
柱に挟まれている様子はなかったが、この状態では動く事はできないだろう。
それでもシホは館長に呼びかけ続けた。
「館長さん! しっかりしてください! すぐそこに出口があるんですよ!」
すると、館長は朝起きたばかりの赤ん坊のようにゆっくりと目を覚ました。
「あ……あ、君か……」
うつろな目つきで館長が言った。
「わしは……どうも……もう駄目みたいだ……。頭を……そこの柱にやられたらしい……」
「そんな! それぐらいで死んじゃいけません! 死ぬわけないですよ!
ほら、つかまって! 一緒に逃げましょうよ!」
差し延べられた手を館長は丁寧に拒んだ。
「ふ……ふ、この柱を見てから言いやがれ……。こんなんじゃ誰だって助からねぇさ」
「そんな……!」
拒まれた手で館長の手を握った。
こんなに熱い炎の中にいるのに、館長の手はあまりにも冷たかった。
館長の手の感覚でシホは全てを悟った。
「それじゃあ……」
この非常時にシホは奇妙なほど落ち着いていた。
シホも何かを決意したようだった。
「私も……ここで……死にます」
シホが言った。
「何言ってんだ……。嬢ちゃん……」
「こんなに沢山の本達と一緒に死ねるんですもの。本望です」
シホはその場で目を閉じた。
どうせこの炎だ。扉までたどり着く事もできないだろう。すでにそれほどまでに炎は広がっていた。
それならば、大好きな本と一緒に、ここで……。
不思議な感覚だった。ついさっき少し話しただけなのに。
この人を一人で死なせるのは可哀相だ。
それなら私が一緒に―――。
それでも構わないとシホは思った。
「それで……いいのか……」
館長の声が聞こえた。
弱々しい声だったがシホにははっきりと聞こえた。
「嬢ちゃん、あんた、本が好きなんだろ? 本ってのは読むためのもんだ。
一緒に燃えるためのものじゃねぇ。それなら、あんたの読みたいだけ本を読め。
生きて生きて、この世の本をありったけ読み尽くせ。それとも、今ここでわしと一緒に死んで、
本が永遠に読めなくなってもいいのか? それでも死んでしまっていいのか?」
今にも死んでしまいそうな人が言ったとは思えないほど、力強く、大きな声だった。
「どうなんだ!? 嬢ちゃん!?」
シホの口から、震えるように言葉が発せられた。
「……きたい」
「聞こえんぞ! 嬢ちゃん!!」
「生きたい!」
「そうか! なら走れ! 入り口を突き破って外に出ろ!」
「はい!」
「生きろ!」
「はい!」
「行け!! 嬢ちゃんの持ってる本はくれてやる! 餞別だ! 絶対に汚すんじゃねぇぞ!
なぁに、わしは今までずっと一人だった! このまま地獄まで一人でのんびり行くとするさ!」
「……!! 天国の間違いでしょう! ……ありがとうございました!!」
館長に礼を言ってシホは笑った。
館長も笑顔だった。
シホは立ち上がって走り出した。
シホが走って行った後には水の跡がいくつもできていた。
炎がそれすらも燃やし尽くしていく。
それでもシホは走り続けた。
なにがなんでも生き延びる。
さっきまで死ぬ気でいたことなどすでに忘れてしまっていた。
背後で天井が落ちる音がした。
その音を聞いたシホからは涙が止まらなかった。
それでもシホは振り返らなかった。
そしてとうとう、出口までたどり着いた。
体が熱くてたまらない。
ドアは炎に包まれている。
それでもシホは止まらなかった。炎に包まれているドアに体ごとぶつかっていった。
どうか、神様―――。
そして―――。
「……生きてる」
シホは地面に倒れこんでいた。
その手には一冊の本が大事に握られていた。
自分は生きているのだ。
そう思ってシホはようやく振り返った。
その先では図書館が炎を吹いて倒壊していた。
「館長さん……」
シホは図書館に手を合わせた。
館長さんに。燃えてしまった本達に。
「私、最後までしっかりもがいて生きていきます。見守っててください。
……あんまり面識の無い私に言われても迷惑かもしれませんけど。」
そしてシホは再び走り出した。
シホは炎の迷宮の中を走っていた。
出口はまだ見えてこない。
いつしか街中が炎に包まれていた。
もう何人もの人が炭と化したようだ。
異臭が鼻を突く。
人が生きながらに燃えていくその断末魔。
聞いているだけで脳の一部が燃やされる思いだった。
まだまだ炎は広がっていくだろう。
いずれこの街を炭にしてしまうまで。
それでもシホは止まらない。
振り返らない。
そして、諦めない。
燃えてしまった本のためにも、死んでしまった人達のためにも、
そして、何よりも自分のために。
精一杯あがいて生きていく。
命の灯火がこの燃え盛る炎のようにいつかは消えてしまうとしても。
それでも、完全に消えるまでは、生きていく。
死んでしまうその時まで、諦めない。
そう心に決めていた。
一本道が炎でふさがれていた。
皆が立ち往生していた。
「もうだめだ……。これじゃあ逃げられない……」
それでもシホは諦めない。
炎が上がっているといっても一瞬で抜ければそう簡単に燃えたりはしないはず。
幸い炎は左右から伸びているようだ。向こうの道が見える。
一瞬で抜ける事は不可能なことではない。
シホは炎の中に飛び込んだ。
生きるために。
ごめんなさい、館長さん。
少しだけ、この本焦げちゃうかもしれないけど、絶対護り抜くからね。
一枚の小さな紙切れが炎に包まれて燃え尽きた。
case3
END
←case2へ