case2:「潮」
「ちくしょう、なんてこった!」
男は誰もいないその場所で声を上げた。
「こんな所でまさか鯨に飲まれるなんてありえねぇ!
せっかく……せっかく自由になれたってのに!」
彼はもはやどうにもならないことを悔やんでいた。
「どうにか……どうにか脱出できる方法はあるはずだ。
こんなことでくたばってたまるか!」
そうは言っても男に考えがあるわけでもなく、希望は無いに等しかった。
男は海にいた。
自分の国にいたくなかった。
自由が欲しかった。
他人に自由を奪われるのは嫌だったし奪う事もしたくなかった。
人は彼を非難した。
ただ自由が欲しかっただけなのに。
もう安心できるような場所は世界の何処にもないと思った。
残ったのは、海―――。
そこでなら、他の船にさえ見つからなければ自由でいられる。
そう思って海に出た。
見つかりにくいように最低限の大きさの船で。
思ったよりも全然船は見ない。
そうか。科学も進歩したから飛行機の方に重きをおいているのか。
これならばいよいよ本当に自由になれる―――。
そう思った矢先だった。
「まさかこんなデカブツに飲み込まれるなんて……」
あっという間だった。
それは男の目の前に突然現れたと思うと瞬く間に男を船ごと、
それどころか海水ごと飲み込んでしまった。
男は船にしがみついていた。
振り落とされなかったのは奇跡としか言いようがない。
しかし、そこは胃袋の中。
船が浮いている海は、胃酸の海だ。
このままでは溶かされてしまう。
船の状態は案外無事で、甲板の大きな板がはがれてしまったが航海に問題は無さそうだった。
「後はここをどうやって脱出するかだな……」
うかうかしていると船から溶かされてしまう。
急がなければ。
「……そうか、忘れてた。いくらなんでも慌てすぎだった。
こういう時ほど落ち着けってのは正論だな。そうと決まればさっさと動くに限る」
こいつにはひとつちょうどいい脱出口がある。
そこを目指して行けば―――。
「しかし暗くてよく見えないな。適当に進んでいくしかないか」
脱出口を捜し始めてから三十分も経っただろうか。
いくらこいつが大きくてもさすがに見つかってもいい頃だろう。
それなのにいまだ見つかる気配がない。
「おかしいぞ。ここは確かに暗いが、だからこそ見つけやすいはずなのに。
光が差し込むからこそ……」
そう思った時だった。
目の前に一筋の光の柱。
「やっと見つけた……」
こいつは想像以上に大きかったらしい。
だが、むしろその方が都合がいい。
「出口」を見つけたのだから。
男の真上には穴がひとつ開いていた。
そこからは外の世界が覗けるのだろう。
しかし、男にとってその穴はあまりにも高い所にあった。
五〜六メートルといった所だろうか。
それでも男は安心していた。
穴を見つけ出した時点で男の脱出は八割方成功していたのだから。
後はただ待てばこの生物が自ら自分をあの穴まで押し上げてくれるだろう。
間に合ってよかった。
「流されないように気をつけてないとな」
それから男は待ち続けた。
一時間ほど経った。
まだそれは始まらない。
遠くから叫び声が聞こえてきた。
「そコのあンた! 聞こえルだロ! 助けテくレ!」
妙な声だった。
男の声なのだろうがそれが疑わしかった。
男は船からその声の主を探した。
光の筋がうっすらと周りを明るくしている。
そうは言ってもほとんど日の暮れた状態と変わらなかったが。
たったそれだけの明かりで声の主を探すのは困難だった。
「どっチをみテイるんダ! こッちだ! コっち!」
「すまないがこちらからはほとんど探すことが出来ない!
なんとかこっちまで来てくれないか! そうすれば助けてやれるかもしれない!」
男は大声でそう叫んだ。
その声が聞こえたのだろう、返事が返ってきた。
「ワかった! どうヤら右腕ガとケちまっタようだガがんバってミる!」
「……え?」
一瞬何を言っているのか分からなかった。
右腕が溶けた? そう言ったのか?
しかもそれをまるで他人事のように言っている。
どういうことだ?
ばしゃ
ばしゃばしゃ
ばしゃばしゃばしゃ。
水の音が近づいて来る。
どうも泳いでいると言うよりもがきながら近づいてくるような感じだ。
やがてその姿が光の中に現れた。
男が船から見ていたのと反対側にいたらしい。
その音は背後から聞こえた。
振り返った男は絶叫した。
顔がない。
鼻も。耳も。髪の毛はほとんど抜け落ちているようだ。
目のあるべき部分には真っ黒な大きな穴が二つ開いていた。
どうも普通よりも大きい。
何らかの形で広がったのだろうか。
口にあたる部分は歯が抜け落ちている。
舌は普通よりも長く見える。
いや、溶けて軟らかくなって垂れ下がっているだけのようだ。
そのせいでまともな声が出なかったのだろうか。
「お〜イ! モう俺をみつケられるダロう! たスけてくレ!」
あの状態でどうやってここが分かったのだろうか。
「まったクくロうしたぜ! ここニくるマでにメだまがオちちまった!」
腕を上げたつもりだろうか。
肩口から晒された肉に白い何かが突き刺さっていた。
いや、それは骨だった。
骨以外が全て溶かされた右腕を必死でぶらぶらさせている。
その骨がたった今、肩の肉をえぐって胃酸の海に落ちた。
「おイ! あんタ! はヤくたスけてくれ!」
「ひっ……! く、来るな! この船に近づくんじゃない!」
「なニをいってルンだ! 俺はマだいきテるんダ! たスけてくレ!」
「馬鹿を言うな! あんた自分がどんな姿をしているのか分かっているのか!」
「すガた? それガどうシた! マトもなカラだでないとうけイレないノか!」
「知ったことか! さっさとその醜い体まできれいさっぱり溶かされちまえ!」
「……きサまのこコろは腐っテやガる! 俺ニハみえるぞ! この俺ノイまのすガたいジョうに醜いきサまのこコろが!」
「なんとでも言え! とにかく、あんたなんかを船になんか乗せてたまるか!
早く沈んじまえ!」
「オオ……! きサま! 呪ってやルぞ! なんトいうやツダ! 見た目ノちガいサえミトめナい下衆め!」
その男はひたすら最後までもがいて溶けていった。
最後まで船の上に罵声を浴びせ続けた。
下半身からだんだんと溶けていく様が確認できた。
男はその様を見て吐いた。
とても人間の死に様とは思えない。
自分も船から投げ出されていたら……。
考えただけでもまた吐き気がこみ上げてきた。
「ちくしょう! こんな所はもういやだ! まだ……まだこないのか!」
その時だった。
地震。
そう思えるほどの大きな揺れが起こった。
と思うと今度は津波が襲い掛かってきた。
「よし! やっと来やがった!」
そう。そいつが食事を始めたのだ。
これでこいつはあの穴から潮を吹き出す。
それが男の計算だった。もうすぐ外に出られる。
あとたった一つ心配な事があった。
自分の体重。そして体の大きさ。
それがちゃんと穴を抜ける事ができるのか。
その問題さえクリアできていれば穴を抜けられるはず。
いよいよ穴が近づいてきた。
出られるか。
「神様、どうか俺をこの醜い所から助け出してくれ―――」
男は祈った。
一頭の鯨から潮が吹き出された。
それは空に向かって高々と吹き上げられた。
その潮の中に異物があった。
男はそいつの体から脱出する事ができた。
噴出される潮の勢いに乗って一気に外に吹き飛ばされた。
男が穴に迫っていた時、男に猛烈な勢いで迫ってくるものがあった。
人の形をしている。
だが、人ではない。
骨。
先ほど見捨てた溶けつつあった男が完全に骨を残して溶けてしまったのだ。
右腕の骨がなかったことからもその事が分かった。
その骨がまるで生きているかのように男の体にしがみついてきた。
鋭くとがった肋骨が男の体に突き刺さって食い込んだ。
痛みに身をよじり必死でもがこうとするが骨はますます肉に食い込んでくる。
ぶちぶちと肉を裂く音が聞こえた。
痛みのあまりもがき続ける男に、聞こえるはずのない声が聞こえた。
「キサマモマトモデハナイカラダニシテヤルゾ」
男が鯨の体から脱出できた理由は二つの問題をクリアできていたからだった。
ひとつは体重。
鯨の吹き出す潮の勢いに逆らわないだけの軽さだったので潮に乗れた。
もうひとつは体の大きさ。
噴出孔につかえない程度の大きさだったために穴を通り抜けられた。
そして、その条件をクリアできた理由。
男は鯨の体の中から抜け出す事ができた。
ただ、抜け出したのは首から上だけだった。
体から下は、偶然巻き込まれていた骨が偶然にもざっくりと切り裂いたのだった。
飛び出した男の顔は無惨なものになっていた。
耳や鼻は削げ落ち、目玉は眼窩に収まっていない。
舌は二枚か三枚に裂けているようだ。
歯もほとんどない。
頭部の大きな傷口からは脳の一部が流れ出ている。
これが先程まで喚いていた男の顔だろうか。
それは弧を描いて海に落ちた。
何の抵抗もなく沈んでいった。
一頭の鯨が海の中に潜って行く。
そんな事を知りもしないかのように海は静かにゆれる。
一枚の紙切れが海の上を漂っていた。
その紙切れが漂っている場所に大きな鯨がいたことなど誰も知ることは無いだろう。
case2
END
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