番外編シリーズ1
つー君とZ子(4)
〜接触〜
「こんな時間までいるのか」
時計の針が頂点で重なっても、警察は持ち場を離れていないようだった。かなり執念深い。24時間体勢とでも言うのだろうか。まるでコンビニだ。
頃合を見計らって公園まで引き返して来た黒人だったが、やはり中まで入る事は難しそうだ。
照明なども用意され、闇に紛れて潜り込むことも出来ない。
やはり今日は諦めるか。そう思った矢先の事だった。
「―――」
風の音に乗って微かに聞こえたそれは、確かに自然の音とは違っていた。
恐怖を忍ばせたその音は、公園から南西にあたる方から聞こえて来たようだった。
黒人を含め、その場にいた全員が一瞬にして緊迫した空気の中に放り込まれた。
「今のは、風の音か?」
緊張感に堪えられなくなった警官が1人口にするのは、まるで言う意味がないと分かっている台詞だった。
「明らかに悲鳴だ! 女の声ならともかく、男の声はそうそう聞き違えるもんじゃない!」
「すぐ現場に行く! お前達は此処で待機だ、分かったな!」
「はっ!」
機敏に体勢を整え、声の聞こえた方へと、警察の何人かが向かった。向かったのは恐らくお偉方と腕利きだろう。
警察の動きがあってから数分後、公園付近の雑木林の枝葉を撒き散らす影があった。
「クソッ、チャンスなんだけどなぁ〜、助けに行かない訳にもいかんよなあ〜!」
茂みを無駄なく駆け抜けながら、ぶちぶちと黒人が言葉を撒き散らす。
「でも何か分かるかも知れないしなぁ〜。しょうがねーよなあ〜、全く!」
手ごろな木を1本見つけると、それを手も使わずに、まるで階段でも上るかのように垂直に駆け上がった。
そして、頂上まで上りきると、木の枝を蹴り、地面に平行に跳んだ。勿論、方向は公園の南西だ。
「間に合えよッ!」
黒人が、更に1歩踏み込む。本来、そこには何も無いが、黒人にはあまり関係が無い。
そのまま、空気を踏み台にして加速する。見るものには空を駆けるかのように見える事だろう。
『虚蹴』の連型『天駆』
少しは様になるかと黒人が付けた名である。
落下よりも遥かに速い加速度で、黒人はあっと言う間に現場を視界に捉えた。
「うっわっ、たッ、助けてっ、助けてくれえぇっ! 誰かーッ!」
息も止まらんばかりの力で叫びながら逃げる若い青年を、後ろから眼鏡をかけた小太りの男が静かに追っている。手に持っているのは刃物か何かだろうか。
小太りの男は、とても走っているとは言えないように見える。歩いていると言った方が合っている。それなのに、青年からは全く距離が離れない。
「誰かーッ! 助けっ、助けてっ……!」
もはや走る体力も無くなり、それでも懸命に逃げる青年を、小太りの男は、表情1つ変えずに追い続ける。
「無意味だと思うがね。何処まで逃げても、君が“死”に捕まるのは絶対だ」
やっと口を開いた時には、その男は青年の目の前に立っていた。
青年には、距離を詰められた事も、追い抜かれていた事も、まるで知覚できなかった。
「あ……う……わ……」
電子音が鳴り出した。古いメロディだった。
「そろそろ時間だ。さようなら」
小太りの男が、眼鏡を上げ、持っていた刃物、体を貫くには十分な刃渡りのナイフを振り上げた。
殺人鬼のナイフにしては、血どころか、その跡すら付着していない。寧ろ、その銀色の刃が、数少ない街灯の光を集めて輝いているように見える。
「いやだ……死にたくな……!」
「皆そう言うんだよ。もう少しマシな台詞を吐いてくれ」
感情の篭らない声で青年の言葉を遮り、間髪入れずにナイフを振り下ろした。
ナイフが突き刺さったのは、青年の身体ではなく、冬の寒さに凍り付いたのではないかと思わせる、冷たいコンクリートの地面だった。
「……何者かね」
顔だけを上げ、眼鏡のズレを再び直しながら、男が訪ねる。やはり、感情の篭らない、事務的な声で。
「……何者だろうねぇ」
青年を軽々と脇に抱え、小太りの男に向き直り、ふざけた返事をする。
「冗談は止めてもらいたいんだ。あまり好きではないからね」
ナイフを引き抜き、彼に突きつけながら男が言う。眼鏡の向こうにあるはずの目がよく見えない。
「あ……あ……あなたは!?」
ようやく目を開けた青年が、自分を抱える人に震える声で問いかけた。首筋には、例のナイフで付いたであろう浅い切り傷がある。
「ふふ、失礼。きちんと名乗ろう」
青年を降ろして手を胸ポケットに入れ、あるものを取り出した。
「旧陸日本国警察、第三管区署警部補、松方だ! 貴様を殺人、及び殺人未遂、死体遺棄の罪で逮捕する!」
これだけの複雑な台詞を1度も噛まずに言い切ったのは見事なものだ。
松方は警察手帳を左手で突きつけ、右手には手錠を用意していた。
「警察の人間か。参ったね、なるべく接触は避けたかったのだが」
「抵抗は無駄だ。自分の罪を重くするだけだぞ!」
迫力のある声で松方が脅しかける。しかし、小太りの男は意に介していないようだった。
「残念だが、時間が無い。私はこれで失礼するよ。目的は果たした」
それだけ言い、ナイフを仕舞うと、松方に背を向け、暗闇に向かって歩き始めた。
「待て! このまま逃がすと……」
松方が男を捕らえようとしたその時、何処からとも無く雄叫びが聞こえてきた。それは、次第に大きくなっていった。
「―――ぉぉおおおおおっ!」
それは、一瞬の内に、逃げようとした男との間合いを詰め、その顔面に、加速でとてつもなく重くなった拳をお見舞いした。
勢いは止まらず、男の顔面から拳が離れるまで、数秒は掛かった。男は、空気の抵抗を受けていないかと思わせる程の速度で吹き飛んでいった。
男は、本来逃げようとした方向とは間逆の暗闇に吸い込まれた。
「良しっ!」
目の前に降り立った男を前に、松方はしばし茫然としていたが、やがて我に返り、彼を怒鳴りつけた。
「良しっ、じゃない! お前、奴がそのまま逃げたらどうするつもりだ! と言うか、お前は何だっ! いきなり降って来て!」
「降って来た事はどうでも良いんだ……そうだな、俺は何者でしょうねぇ」
「私と同じような事を言うんじゃない! 真面目に答えろ!」
「警官さんとはいえ、女の人にそんな乱暴な口調で責められるのはちょっと……」
「性別は関係ない! ………もういい、奴の逮捕が先だ」
松方が黒人に背を向け、男がいる筈の方を見る。
その時、黒人も松方も、自らの目を疑った。
少し離れた街灯に照らされていた男が、カラクリ人形のように奇怪な動きで起き上がると、首だけを黒人達の方に向けた。
「馬鹿な……あれだけ吹き飛んでおいて、血の1滴も……?」
「それどころか、ダメージもまるで無いね。結構、力込めて撃ったんだけど」
「予想外だよ、君にこれ程の力があったとは。お陰で完全に時間を使い切ってしまった。
今日の所はこれで退散しよう。ではまた、機会があれば会おう、クロト君」
「なっ……、お前、奴と面識があるのか!?」
「いや……初対面の筈……」
自分の名をはっきりと口にした事に、黒人も驚きを禁じえなかった。
その隙を狙ってか、何時の間にか男の膨らんだ腹も姿を消していた。
「……逃げたか」
「何であいつ、俺の名前を……」
2人とも、各々の思案に耽っている内に、あることを思い出した。
「あ、そうだ、あの青年……」
「まあ奴も逃げたし、大丈夫の筈……」
ふと青年の方を見ると、そこには、彼が地面に転がっていた。
彼は、恐怖の為か、うつ伏せのまま、幾度か体を震わせた後、静かに、動かなくなった。
「おい、どうした?」
松方が、青年を仰向けに転がした。
その顔は、苦痛を滲ませ、舌をだらしなく垂らしながら、目を裏返していた。
「これは………!」
松方が、青年の首筋に指を当てる。その指からは、全くの静かさと、気持ちの悪い冷たさを脳に伝えた。
「馬鹿な……何時の間に……!」
「何かあったの?」
事態に気付いていない黒人に、松方が顔を向ける。
「死んでる。脈も熱も無い。おまけに言えば、瞳孔も完全に開いている」
青年に付けられていた首筋の切り傷が、何時の間にか消えていた事には、誰も気付かなかった。
翌日、死体解剖の結果、青年の死因は“心臓麻痺”によるものだった。
番外1−4 END
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