番外編シリーズ4
邂逅(16)
〜旅立ち〜
最初は、動くことすらままならなかった。
痛みに耐えて動くことは、精神力次第でできるかもしれないが、
神経がなくなってしまったかのように、体が言うことを聞かない。
更には、傷付いた体は疲労が異常に早く、一日の内に何度も意識が無くなった。
そんな状態では、どうしても他人の協力が必要になる。
食事も、排泄も、包帯やギプスの取り換えも、青年が全て世話をしてくれた。
杏が食べやすいようにと、食事は全て固形のものを避け、
噛まなくても飲み込めるような軟らかい料理を考え、作ってくれた。
杏のことを気遣ってか、着替えの際や、体を拭いて綺麗にする際には、
わざわざ目隠しをしたまま作業をこなした。
何も見えない状態にもかかわらず、青年は正確な働きを見せた。
そんな青年の健気な看病の甲斐もあったのか、次第に杏は元気を取り戻していった。
一月も経てば、杏はその体を自力で起こし、青年とまともに会話をすることができるようになっていた。
そして、杏はようやく、友の存在を思い出した。
「あの……クロは……」
――とうとう来たか。
どんなにそのことを思い出させないように振舞っていても、
少女が忘れていなければ、意味が無い。
黒人は、本当のことを話すべきか、実際のところ、かなり迷っていた。
真実を聞いて、少女が生きる気力を失くす可能性もある。
しかし、いつまでも黙っていられる筈が無いのもまた事実だ。
今、話をはぐらかせば、勘の良い人間ならばそれだけで察することができるだろう。
ほんの数秒迷った後、黒人は、事実を隠すだけ無駄なことだと悟り、重い口を開いた。
「クロは……立派だったよ。いつ死んでもおかしくないような体で、キミの為に、此処まで走ってきたらしい」
少女の顔に、暗い影が差したのはすぐに分かった。
しかし、今更誤魔化すことなどできない。
黒人は、残酷な事実を、淡々と――表面上は、淡々と、語り続けた。
「今思えば……うん、家に来た時にはもう、手遅れの状態だった。
信じられるか? 撫でた時の感触、すげー冷たかった。
それでも、クロは動き続けてた。きっと、キミを助けたい一心だったんだと思う」
黒人は、涙を流さない。流すことができない。
どんなに悲しみが押し寄せても、涙は出ない。
体中が痛むような、足元から強烈な電気の通った水が這い上がってくるような、
そんな感覚が、涙に変わることなく、黒人の体を苛み続ける。
これは、黒人の元々の性質だった。
子供の頃までは、寧ろよく泣く方だったのだが、年を重ねるにつれ、
まるで泣き方を忘れてしまったように、涙を上手く流せなくなった。
やがては、大切な人間との死別ですら、その性質を揺るがすことはなくなった。
今では、それが普通になっていたので、あまり気にも留めなかったのだが――
――目の前でぼろぼろと涙を零す少女が、やはり、羨ましかった。
少女は、溢れる涙を拭こうともせず、次から次へと真珠のような雫が頬を伝って布団に落ちる。
その表情は、見開かれた眼を除けば、驚くほどに無表情だった。
ただ、涙だけが、止め処なく零れ続ける。
まるで、体の反応に対して、感情が追い付いていないかのように。
「クロは……今、何処に?」
少女の感情が凝縮されたような、震えた声は、静かな部屋の中に、必要以上に響いた。
暫くの間は黙っていた黒人だったが、やがて、静かに腰を上げた。
「体、大丈夫か? 少し我慢できるなら、連れて行こう」
少女が頷くのは、初めから予想は出来た。
勿論、体の状態など考えないだろうということも。
しかし、黒人はそれを止めなかった。
少女は、弱々しく、黒人の袖を掴んだ。
「連れて行って……くれますか?」
墓は、簡素なものだった。
素人が削ったであろう墓石には、あまり上手いとも言えない字で、クロの名が彫られていた。
側には、どこかで摘んできたのか、真っ白な花が添えられていた。
あまりにも安っぽいその墓からは、しかし、造った者の、死した者を悼む気持ちが感じられる。
「ごめんな、こんな墓しか造ってやれなくて」
青年が、杏を抱えたまま、クロの墓の前に腰を下ろす。
あまり大きいとも言えない墓だったが、座った状態では、見上げなくてはならない程度には大きかった。
杏は首を少しだけ横に振り、精一杯の力を振り絞って、クロの墓に手を伸ばす。
青年は、杏の意思を汲み取り、一歩分、墓に近寄った。
それによって、杏は墓に触れることができた。
ごつごつとした表面は、まだ治りきっていない杏の手には少し痛んだが、
構わずに杏はその表面を撫で続ける。
未だ涙の跡が残るその顔に、涙の跡を辿るように、新しい雫が零れ落ちる。
「ありがとう……クロ……私はもう、大丈夫ですよ」
何処かで、遠吠えが聞こえる。
確かに聞こえるその遠吠えは、それでも何処から聞こえるのかは、分からなかった。
「あの、ありがとうございました」
部屋に戻ってから、杏がぽつりと言った。
青年は、一瞬呆けたような顔をしたが、すぐに目を伏せ、微笑みを見せる。
「良いよ、別に。キミ一人を運ぶぐらい、訳はない」
「いえ、そのことだけじゃなくて……」
杏は一旦そこで言葉を区切り、改めて、同じ言葉に少し訂正を加えて、言い直した。
「助けてくれて、本当に、ありがとうございました」
本当は、最初に言うべき筈の言葉だった。
しかし、クロの死を知り、今ようやくそれを口に出すことができた。
その言葉は、杏を助けたことよりも寧ろ、
クロとの最期の約束を果たしてくれたこと。
それに対する感謝の気持ちの方が強かった。
青年は、優しい笑顔のまま、もう一度答えた。
「それも、大したことじゃあないよ」
クロの死を知った後も、少女は元気を失くすようなことはなく、
寧ろ、これまでよりも回復が早くなったようにさえ見える。
ある日、黒人はそのことを訊ねてみた。
少女は、クロと黒人が救ってくれた命を手放すつもりは無いと答えた。
三ヶ月も経った頃には、まだ歩くことは満足にできないまでも、
身の回りのことは自分で出来るようになっていた。
それでも、やはり受けた傷は深く、一生を以てしても消えることのないような傷も、
体中のあちこちに残されていた。
杏は、それも仕方の無いことだと、半ば諦めるようにその傷を受け入れていた。
これから、この傷を見る度に、トラウマが甦るのも、覚悟せねばならないとも考えた。
しかし、意外なことに、その覚悟は無駄に終わった。
「もうそろそろ、大丈夫かな」
青年が、突然そんなことを言い出した。
何が大丈夫なのだろうか。その疑問を杏が口にする前に、青年が続けて答を言った。
「キミぐらい根性があるなら、きっと耐えられるだろう」
そう前置きをして、青年はこれから始めることについて、説明した。
青年も能力を得た者であること、
その力を使えば、杏の傷を跡形もなく治すことができるということ、
ただ、その「治療」にはお互いに強い負荷がかかり、相当な気力が必要なこと。
また、「治療」を数回に分けることはできず、多少の時間がかかっても、
一度で全て治療しなければならないこと、
しかも、それは杏の意識が覚醒した状態でなければいけないこと。
短く纏めると、これだけのことが青年の口から説明された。
最後に、「治療」は無理に受けなくても良いと、青年は付け加えた。
過去にも、彼の「治療」を断った者がいるらしい。
きっと、何か理由があったのだろう。
それでなくても、説明を聞く限りでは「治療」を受けられる人間は、限られてくるように思われる。
しかし、杏には断る理由など、何もなかった。
殺意を持った苦痛に比べると、救おうとしてくれる負担など、取るに足りない。
「受けるか?」という青年の短い問いに、杏は迷いなく頷いた。
覚悟していたとはいえ、負荷は相当なものだった。
理由は、杏の傷の数が多過ぎたことによるものらしい。
青年も意外だったらしく、普通ならば一分もあれば完璧に治すことができる筈だったのだが、
杏の「治療」には一時間近くもかかってしまった。
負荷そのものには耐えられた杏だが、
やはり長時間のそれは相当な気力を費やすことになり、
「治療」が済むと同時に、意識を失ってしまった。
しかし、青年の言葉に嘘はなく、杏が目を覚ました時には、傷は跡形もなく、消え去っていた。
火傷も、切り傷も、剥がれた爪も、全てが元の健康的な状態に戻っていた。
折れた骨ですら、きちんと繋がっているのが分かる。
もはや、包帯もギプスも必要なかった。
黒人は、ようやく、少女の本来の姿を目の当たりにした。
あちこちが裂けていたその体は、今は絹を思わせる美しい皮膚に覆われている。
血色の良くなった顔は、うっすらと紅潮させた頬が可愛らしく、
年齢以上に幼くも見えたが、逆に、ある瞬間には、相当に大人びて見えた。
これには、黒人も思わず見惚れてしまった。
少女は、感情を抑え切ることができないのか、今度は喜びの涙をぽろぽろと零し始めた。
黒人の中では、いまや少女は「泣き虫」の称号を得ていた。
「いや、良かった良かった。一時はどうなるかと思ったけどな」
「うぅ、本当に、ありがとうございます……!」
泣きながら礼を言う少女の姿に、黒人は戸惑ったように言葉を返す。
「そう何回も言わなくても良いってば。こっちが恥ずかしくなるからさ」
優しく頭を撫でながら、黒人が続ける。
「それに、歩けるようになるまでは、まだまだ時間も苦労もかかるんだから」
傷は治せても、寝たきりだった三ヶ月間を取り戻すことはできないと、青年は言った。
歩くという行為は、人が意識していないだけで、想像以上に難しい。
毎日、歩く必要があるからこそ、自然とそれが身に付くだけで、
杏のように、長い間、全く歩かなければ、すぐに歩き方を忘れてしまう。
杏が再び自由に歩くことができるようになるためには、リハビリなどで「鍛え直す」しかなかった。
それには長い時間と苦労が伴う。
しかし、今の杏には、そんな苦労など、もはや苦労の内にも入らない。
完全に感覚を取り戻すのに、必要最低限以上の大した時間はかからなかった。
杏自身が弱音を吐くことさえも、一度として無かった。
「キミは、本当に根性があると言うか何と言うか……いや、本当に驚かされるよ」
そう青年に褒められたのが、杏には照れ臭く、それ以上に嬉しかった。
青年の言葉はいつも杏の心に深く響く。
怒られるとひどく落ち込んでしまうし、褒められると舞い上がる程に嬉しくなった。
その原因となる感情に気付くのは、少し先のことになる。
杏には、その前にやるべきことが残っていたからだ。
杏が助け出されてから、一年後。
「それじゃあ、行くか」
玄関で、青年が言う。
「はいっ!」
杏が、元気良く返事をする。
歩けるようになったとはいえ、まだまだ不安が残るため、青年が杏の手を取る。
杏はその手を強く握り締め、外へと足を踏み出した。
自分達の過去に、一つの区切りをつけるために。
番外4−16 END
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