番外編シリーズ4
邂逅(14)
〜黒〜
空を貫く一筋の黒い閃光。
ほんの些細な約束を守る為、魔人に魅入られた青年は、少女の前に、再び現れる。
操縦士は、まず目の異常を疑った。突然、目の前が真っ黒になったからだ。
しかし、自らの握る操縦桿が見えていることから、すぐに原因が自分の目にあった訳ではないことに気付く。
真っ黒なのは、フロントガラスよりも更に外側、
遮る者のいない筈の、「外側」だった。
「う、うわ、何だ、急に真っ暗に……!」
操縦士がパニックに陥り、彼に銃を向け続ける男は、彼を落ち着かせようとする。
「馬鹿野郎、夜は暗いのが当たり前だろうが」
そう言って操縦士の視線を追い、彼もまた絶句する。
夜は暗い。それは間違いない。しかし、星明かりも無い程の暗闇を、男は初めて目の当たりにした。
異変はそれだけではない。あれほど明るかった満月の光が、側面の窓からも差し込んでいない。
彼らの乗るヘリは、一瞬にして、夜以上の暗闇に包みこまれていた。
その異変に気付かないのは、彼らの雇い主とでも言うべき、醜く歪んだ顔で馬鹿笑いを続ける小男と、
その足元で気を失っていると思しき少女ぐらいのものだった。
最早、正気を保っているのもやっとな操縦士のパニックをなんとか収めようとしつつも、
男達もまた、自らの冷静を保つのがやっとだった。
なにしろ、自分達が前に進んでいるのか、それとも止まっているのか、判断できる基準が殆ど無い。
次の瞬間には、浮遊感と共に、死へのダイブが始まるかもしれない。
そんな状況で、パニックに陥らないだけ、彼らは精神的に十分な強さを持っていると言えた。
そして、この後に起こる事態は、その強さですら全く役に立たなくなる。
追い付くのは一瞬だった。
音速を超えることによる衝撃波を円形に放ち、生物のそれとは思えない速度で飛ぶ烏は、
生物ではないそれの眼前に、翼で全体を覆い隠すように、空中で立ち塞がった。
ヘリのプロペラの風圧など、その巨体の前にはまるで意味を成さない。
黒人を乗せて飛び立った時には普通の人間の二倍程度の大きさだった烏が、
ヘリの眼前に現れた時には、それすらも一飲みにしてしまえそうな程に巨大化していた。
敵を威嚇する際には体を可能な限り大きく見せるという、動物らしいと言えば動物らしい能力だった。
そして、烏は、それ以上は、何もしなかった。
夜をも覆う闇より現れる、黒。
黒から伸びる、「手」。
ドアを「手」が掴む。
一瞬の間を置き、鉄製のそれを、紙の如く破り捨てる。
そして、闇は内側までをも浸食する。
少女が、異変に気付いて目を開くのと、
黒人が声を発するのは、ほぼ同時だった。
「頼まれて、女の子を一人迎えに来たんだけど」
そう言いながら、ドアの無くなった入口の両側に手をかけ、そのまま想像以上に広い内部へと入り込もうとする黒人の目には、
数人の男達と、少女が一人。
男達の何人か、同じ服装をした者達は、懐に手を伸ばし、恐らくは銃を握っている。
ヘリの操縦士と思しき男は、脅されて機体を動かしているのだろうか、隣に座る男に銃を突き付けられながら
パニックに陥っている。
銃を突き付ける側の男は、銃を下ろさないまま、黒人の方を睨んでいる。
「き、貴様、どうやって此処に……!」
今更事態を目の当たりにした小男が、これまた今更に慌てふためく。
そして、少女を隠すように背後に転がし、立ち塞がる。
黒人は、こともなげに答える。
「お前と違って、頼もしい仲間がいるもんでね」
涙が出そうだった。いや、既に止め処なく溢れていた。
杏が信じた希望が、今、目の前に立っている。届くはずの無い空にさえも、追い付いて見せた。
最早、杏の目の前を塞ぐ絶望など、微塵も残ってはいなかった。
「邪魔をするなら相手になるが、何もしないなら俺からは手を出さない。
それで良いな? 嫌ならまあ、結局相手にすることになるが」
そう言って、青年は杏に歩み寄る。間に立つ小男など、眼中に無いとばかりに。
小男はそれが気に入らないらしく、見せつけるように自らの持つ銃を青年に突き付ける。
「ふ、ふんっ! どんな卑怯な手を使ってストを倒したか知らんが、此処ならば小細工も出来まい!
おい、お前らも狙え! 合図したら同時に撃つんだ!」
小男の撒き散らす言葉に従い、男達も銃を取り出し、青年に向ける。
青年は動かない。その視線は、杏にのみ向けられている。
「ぐふぇへへへへ! きっ、貴様のような餓鬼に、ワシの永遠の命が奪われてたまるものか!」
部下の男達が青年に銃を向けたことで安心したのか、小男自身は銃を下ろし、杏の頭を掴み上げる。
そして、その頭を青年の眼前に突き出す。
「お前もよく見ておけ! ワシの邪魔をする者の末路を!」
そう言って、杏に絶望を与えようとするが、それにもかかわらず、青年の目に映る杏は、微笑んでいた。
杏の目に迷いはなく、それどころか、ぼろぼろと涙を流しながら、どこまでも青年を信じていた。
出会ってから一時間も経っていない上に、こんなにも絶体絶命の状況で、杏は青年が凶弾に倒れる姿が想像できなかった。
いや、初めから考えてすらいない。
根拠は、彼が今ここに立っているということ。あの人数を相手に、傷一つ負わず、尚も不敵なその姿だった。
そして、一度「信じる」と言った以上、杏は頑ななまでに、ただ一心に青年を信じた。
その結果として、彼は来てくれた。
だからこそ、杏は信じる。彼が、全てを終わらせてくれることを。
何があろうとも、信じ抜く。それが杏の、覚悟。
その覚悟の表れが、笑顔だった。
その姿が気に入らないのか、暫く苛立ったように唸った後、小男が勢い良く手を上げる。それが「合図」だった。
刹那、心臓を鷲掴みにされたような、強烈な悪寒。
彼らは撃つことができなかった。
体が、凍り付いたように動かないのだ。杏自身がそれを体験している為に、容易に察することができた。
理由は、青年の豹変。
表情だけならば、青年は口元に薄い笑みを浮かべていた。
まるで、杏の笑顔に応えるように。
だが、先程までの少し異質なだけの青年が、今は明らかに違う。
発する殺気は、ただの「雰囲気」ではなく、死線を乗り越えてきた強者にのみ持つことが許される、
敵の生殺与奪をも握るような、本物のそれだった。
ストでさえ相手にならなかったのだ。それ故、あまりに格の違う、目の前の「化物」を相手に、彼らの体は、青年を敵にすることを拒み続けた。
「ど、どうした貴様ら! 早く撃て! はや……く……」
小男の声は、青年に目を向けられた途端、小さくしぼんでいった。
青年の真っ黒な瞳は底が見えず、その目に睨まれた小男は、みるみる顔を青くし、情けなく震え始めたのだった。
上げた手には汗が滲み、股間からは別の種類の液体が漏れ出し、高級そうな生地を濡らす。
青年は、一切の攻撃を用いず、発する殺気のみで、ヘリ内部の人間を完全に圧倒していた。
青年が一歩を踏み出すと、小男は「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、杏をその手から捨て、青年のいる方とは逆方向に逃げ出す。
しかし、多少広いとはいえ、そこは空中の密室。逃げられる範囲など、たかが知れていた。
床に放り出された杏は、その衝撃だけでも言葉にならない程の痛みに襲われたが、すぐに、それとは別の感触が脳を支配した。
「遅くなって悪かった」
青年が、待ち続けた杏を褒めるように頭を撫で、そのまま肩へと手を回す。
すると、杏の肩を優しく包んだ青年の手が、彼の体へと引き寄せられる。同時に、杏も青年の胸に顔を埋めることになった。
青年の体は温かく、知らず知らずの内に杏の体から力が抜ける。
そのまま、杏は青年に身を委ねる。しかし、その傷だらけの手は、青年のコートをしっかりと掴んで離さない。
「ずっと……待ってるって言ったでしょう? ……あなたはちゃんと来てくれた。
それだけで、十分です」
その言葉に、青年は、ただ優しく微笑んだ。
少女を両手で抱き上げ、黒人が立ち上がる。
そして、振り返ると、扉を失くした出入り口に向かい、進み出す。
「や、止めろ! そいつを連れて行くな! ワシの……ワシの永遠の命を!」
小便を垂れ流していた小男は、黒人の殺気が消えることで正気を取り戻すと、慌てて彼を止めようとする。
「お前ら、何をしている! 早くそいつを止めろ!」
小男が命令し、部下の男達もそれに従おうとはするものの、数秒前の黒人の殺気が頭から離れないようで、
銃を向けてはいるが、撃つことができないのは誰の目にも明らかだった。
そして、黒人が、入口に立つ男に、一言だけ告げる。
「どいてくれるかな」
その一言で、彼らの戦意は、粉微塵に砕け散った。
よろよろと、力なく黒人に道を開ける。
黒人の声は、脅すような口調ではなく、寧ろ優しささえ漂わせる声だった。
そしてそれは、「言う通りにすれば助かる」と思わせるのに、十分な効果があった。
男達は、黒人の思惑通り、「助かりたい」と思ってしまったのだ。
背後で小男が無様に何か喚き散らしていたが、その声すら、誰の耳にも届いてはいなかった。
「行くか」
黒人が短く言う。まるで、散歩にでも出かけるかのように。
「……はい」
力の無い声で、杏が言う。
杏は一瞬、どうやってヘリから出て地上に降りるのか気になったが、それすらも青年に委ねた。
今の杏に出来ることは、青年を最後まで信じることだけだった。
そして、吹き荒れる風と共に、自由落下からくる浮遊感が杏の身を包んだ。
上空数千メートルはあろうか。
四方にわたって地平線が見渡すことができるその高さで、黒人は杏を抱えたまま、ヘリから足を一歩、踏み出した。
当然彼の足を支えるものは何もなく、そのまま地上に向かって落下を始めた。
それと同時に、ヘリを取り囲んでいた暗闇が一気に剥がれ落ち、黒人達に追い付き、彼らを包み込んだ。
ヘリの乗員達は、その様子をただ茫然と見ていることしかできなかった。
烏は音も無く黒人達を背に受け止め、空を滑り降りる。
その速度は、ヘリに追い付いた時とは逆に、どこまでも優雅だった。
「重症だから、なるべく振動しないように頼むよ」
黒人の一言が、烏にこの飛び方を選ばせたのだった。
面白くないのは見るも無残な小男だった。
彼は、そのまま大人しくしていれば、少なくとも命は何事も無く済んだ筈だった。
しかし、彼の歪んだプライドは、更に事態を悪化させることになった。
「く、くく、馬鹿め、ワシらには何もできずに逃げおった! このままおめおめと逃がすものか! おい、アレをやれ!」
小男がおもむろに立ち上がり、操縦士に命令する。
彼の脳は、既に「自分が見逃してもらった」という事実を「相手が逃げ出した」ということに書き換えているようだ。
屈辱から無理矢理逃避した彼の頭の中には、侵入者を殺すことしか残っていなかった。
嵐のように過ぎ去った悪夢のような出来事に、半ば放心状態の操縦士は、言われるままに体を動かし、何らかの操作をする。
すると、機体の底から、巨大な機関銃がせり出した。
「これであの怪鳥共々、撃ち落としてくれるわ!」
体は自然に覚えていたのか、意識があるかどうか分からない操縦士は、言われるままに、それでも正確に照準を合わせる。
「撃てェーッ!」
掛声の数秒後、天を切り裂く轟音と共に、無数の弾幕が烏に向かって放たれた。
「成程、アレはそういうタイプの人間か」
黒人が溜息を吐きながら言う。その手には、何発もの巨大な弾丸が握り潰されている。
一度目の機関銃による掃射は、烏から大きく逸れたものを除き、全ての弾丸を黒人が受け止めた。
正確には、黒人のコートが、だが。
それでも、弾丸を正確に受け止めた黒人の動きは、どう見ても人間離れしていた。
次の攻撃に備え、そのコートで少女の体を覆い、抱き上げる。
黒人にとっては、これが最も彼女を守り易い状態だった。
自分の近くが最も安全だと、事実として理解していたからだ。
少々気恥ずかしいとも思うが、今の状況でそんなことを言っている暇は無い。
そして、二度目の攻撃が、ヘリから放たれる。
しかし、機関銃の掃射にも怯むことなく、烏は空を舞う。
機関銃から放たれる弾丸は、一瞬前に烏のいた場所を次々に通過して行く。
やがて、彼らは攻撃に転じる。
烏は向きを変え、ヘリに向かって突進を開始する。
その意図を汲み、黒人が杏を抱えたままその巨大な嘴の先に立つ。
彼らの「特攻」の体勢だった。
ただ、今回は、杏に衝撃を与えないように気遣いながらなので、かなり黒人の動きが制限される。
そんな状況にもかかわらず、黒人は、弾幕を尽く排除するという離れ業をやってのける。
少女を抱える手を右手のみに変え、空いた左腕を防御に回す。
使うのは、少女への衝撃を軽減するため、肩から先の力だけだ。
たったそれだけで、弾丸の威力さえ上回る拳圧を生み出す。その上、それらを全て高速で襲い来る弾丸にぶつけ、弾き飛ばす。
鬼のようなその所業を、黒人は一切のミスなく成し遂げた。
それが当然だとでも言いたげな顔で、彼は人一人を殺すのにはあまりにも過ぎた力に、見事に対抗してみせた。
そして、再び暗闇はヘリの前に現れる。
既に戦意の無かった男達は、即座に脱出に向かった。
パラシュートを背負い、何の迷いも無くヘリから飛び立つ。
それは、ある種の規則正しさを見せていた。
ただ一人、ヘリには小男だけが取り残されていた。
勇敢だからではない。ただ、腰が抜けて動けないだけだ。
「キミは言ったな。俺がこいつらみたいにならないよう、殺すな、と」
黒人が少女に話しかける。少女は、弱々しく頷くだけだった。
「こいつは違う。ただ、生かしておくよりは死んだ方が良いと、俺が勝手に思うだけだ」
感情の見えない目で、黒人が小男を見下ろす。
「良いんじゃないですか?」
思いがけない言葉が少女から返ってくる。
「私にだって、『この人はいなくなった方が良い』って思うことぐらい、ありますから」
そう言って、少女は悪戯っぽく笑って見せた。
その変化に少し面食らいはしたが、やがて黒人も愉快そうに言葉を返す。
「良いね。それでこそだ」
そして、黒人は烏の背に回る。
「さあ、カラス。エサの時間だ。喉に詰まらせないように、なるべく細かく千切って食いな」
いつの間にか、ヘリに入り込める程度の大きさになっていた烏は、
嬉しそうに一声鳴くと、口を開き、その嘴を、恐怖に見開かれた小男の目玉へと、突き刺した。
そして、醜い断末魔は、全ての終わりを告げる鐘となり、朝を迎えようとしている空に響き続けた。
あらゆる苦痛を受け続けた、杏達の苦しみが還って行くように。
長く、永く。
番外4−14 END
←番外4−13へ