番外編シリーズ4
邂逅(13)
〜拳〜
激しく、断続した空気を切り裂く音が、少し離れた場所から聞こえてくる。
目の前の敵が悠然と歩き出す。
ただそれだけの事が、ストには信じられなかった。
「何故……何故動ける!?」
ストは、亡霊でも見たかのような貌で呟く。
侵入者は、こともなげに答える。
「そういう力もあるってだけのことだ」
そうして会話する間にも、侵入者はストへと歩み寄る。
周囲の人間達は、最早立っていることすらままならないようだ。
やがて侵入者がストの目の前に立つ。先程までとは立場が逆転していた。
余裕の表情の侵入者に対し、ストは立っているのが精一杯といった様子だ。
不意に、ストの体に更なる変化が訪れる。
右足に、ずっしりとした質量を持った何かがある。
直接見えた訳ではないが、確かに服の内側、足に直接貼りつくような感覚は疑いようもない。
侵入者の右手がストの左肩に乗せられていることに気付いたのは、その後だった。
時間的には足の異変以前のようだ。
「どんな気分だ? 見ず知らずの人間に命握られるのは」
ストの左肩から離れた侵入者の右手には、先程までとは違った模様が浮かんでいた。
それを「形」と読むことが理解できる日は、ストには永遠に訪れることはないだろう。
「ま、今は気分が良いし時間も無いしな。脅すのはこれぐらいにしとこうか」
ストの体に、三度の異変が訪れる。しかし、今回はそれまでと違い、事実上は、事態を好転させるものだった。
あくまでも、事実上は、だが。
スト達の体を、内側から外側から同時に押しつぶそうとするかのような、謎の圧力の連続が、
突然終わりを告げた。同時に、右足の重みがより鮮明になる。
直接触れてみると、それは枷のようなもので、ストの右足だけを拘束しようとしているようだった。
勿論、他の手足にも同様の枷を連結させなければ、枷の意味は成さないが。
しかし、その枷が封じるのは、ストの動きではなかった。
「力が……?」
圧力が無くなった瞬間から、再び侵入者を捕えようと、能力を展開しようとしたが、
何の手応えも無く、しかも侵入者はわざわざ見せつけるように体を動かしてみせる。当然、足も自由なようだ。
初めての事態に、ストは戸惑っていた。
と、そんな所に。
「いつまで呆けてやがる」
そう侵入者が声をかける。その表情は、相変わらず不敵なままだ。しかし、笑みは消え去っている。
侵入者は、拳の甲を下に向けた状態で、左手の人差し指をストに突き出し、
その指で相手を呼び寄せるように動かし、挑発する。
「時間が無いっつったろ。来いよ、三下」
ストの目の色が変わる。自分よりも年下に見える青年に、ここまでコケにされて、冷静でいられる筈が無かった。
立ち上がり、血走る眼で侵入者を見下ろす。その殺気は、味方である筈の部下達をも恐怖させる。
そして、怒りに任せるかのように、その大きな銃を後方に放り投げる。かなり高く銃は飛び、回転しながら宙を舞う。
くるくる、くるくる。
一瞬の勝負。
銃が地を激しく叩く。
瞬間、ストが、右足の重みを感じさせない勢いで、大地を力強く蹴り飛ばす。
その加速から、更にその巨躯からなる体重を全て自らの右の拳に乗せ、上方に弧を描くような軌道で侵入者の顔面へと振り下ろす。
周囲で様子を見ていた、意識のある、特に腕の立つ数名は、ストの拳が空気、それどころか空間そのものをも切り裂いたかのように見えた。
そして、残りの数名は、ストが動きだした瞬間すら捉えることはできなかった。
一方、侵入者がどんな反応を見せたのかを捉えることが出来たのは、その場には一人もいなかった。
その場で、完全にストの動きを追うことが出来ていたのは、黒人のみだった。
しかも、ストの拳が振り下ろされるその瞬間に動き出した黒人のスピードは、完全に決定的に圧倒的に、ストの拳をも超えていた。
ただ、黒人の拳の軌道が向かう先は、ストの顔でも、体でもなかった。
黒人が狙ったのは、ただ一点、自分に向かって襲い来る殺意の拳。
そして、黒人の右拳は、その一撃でストの拳を、完全に砕き切った。
時間にして刹那、痛みや恐怖など感じる暇もない筈のその瞬間、ストは確かに、総毛立つ感覚を味わった。
死に際、時間の感覚がゆっくりになると言われているように、ストの時間も、止まったかと思える程、遅くなっていた。
無論、自らの拳が砕けて行く様も、コマ送りでその目に焼き付ける結果となった。
しかし、その瞬間、更なる衝撃に、ストの意識は完全に途絶えた。
一瞬の交錯。それだけで全てが決していた。
ストの拳を砕いたその瞬間、既に黒人は二撃目を、「喰らわせて」いた。
右の鉄拳で打ち抜いた勢いを殺さぬまま、
更に回転の力を加えた左腕による裏拳は、正確にストの眉間を衝撃で貫き、脳を激しく震動させた。
のみならず、勢いを衰えさせることなく、そのままストを吹き飛ばした。
ストの巨体は、その重みを全く感じさせない勢いで、地面に並行に吹き飛んだ。
そのまま部下を巻き込み、要塞を取り囲む塀へと強烈に叩きつけられ、そこでようやく、地面へと落ちることを許された。
そして、黒人とストの僅かな時間の対決は、圧倒的な差を以て、決着の時を迎えた。
体勢を整えた黒人が、周囲を一瞥する。
最早、彼に立ち向かおうなどという勇敢なものは、誰一人いなかった。
「で、どうするんだ。お前らも、ああなりたいのか?」
親指で、額から血を流して白目を剥いているストを指す。
その一言と、黒人の威圧感は、いかに狂った要塞の住人にも、「逃げる」以外の選択肢を与えなかった。
「さてと」
気絶した者を除けば誰もいなくなった牢の前で、黒人が空を仰ぎ見る。
その先には、沈みかけて尚、煌々と満月が輝いている。
「北、だったな」
月の中に、小さな影が羽ばたいている。
そして、黒人がその影に向かって叫ぶ。
「カラァァァース!」
大地を揺るがすようなその一声に、影はぴたりと動きを止める。
その様子に、続けて黒人が叫びかける。
「出番だ!」
その影は、最初は小鳥程の大きさだったが、近付くごとにその大きさを増していった。
やがて黒人の許へと降り立った時には、彼を遥かに見下ろすことが出来る程になっていた。
それは影の黒さを保ったままであるかのように真っ黒な烏だった。
一声、しゃがれた声で鳴き、翼を広げる。
黒人は促されるように烏の背に乗り、身を屈める。
「北。さっき聞こえた音は、多分ヘリだ。追いつけるよな?」
言葉を理解できるのか、烏は人間のように頷き、黒人を乗せたまま、夜の広がる空へと飛び立つ。
上空へ昇り、要塞が視界の邪魔にならなくなった頃、それが姿を現した。
黒人と烏は同時にヘリコプターを確認した。
烏が大きく羽ばたくと共に、黒人が頭を低くし、烏の背に両手を着ける。
一瞬の停止。
そして、たった一羽の「烏」は空気の壁を突き破る。
距離も速度も捻じ伏せる音速を以て、漆黒の弾丸が夜空を切り裂く。
そして、二人は再び巡り会う。
番外4−13 END
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