番外編シリーズ4




邂逅(11)
〜After Dark〜






 月を背にして杏と向かい合うその男の目は、杏の一番の友達と瓜二つだった。

「く……ろ……?」

 自然と、杏は涙を流していた。クロが目の前に現れたような錯覚になのか、 それとも、有り得ない筈だった救いの手になのか、はたまた体の痛みなのかは、杏自身にも分からなかった。





 黒人は、牢に繋がれた少女の一言を聞き逃さなかった。 そして、やっと自分が「ビンゴ」を引き当てたことを確信した。

「そうか、やっぱりキミがクロの飼い主だったんだな」

 そう呟いて少女の姿を再び確認しようと、少し体の位置をずらし、牢の中に月光を差し込ませた。
 直後、黒人は息を飲んだ。その、あまりにも惨たらしく痛めつけられた少女の体を見て。

 彼女の体は、顔以外にはまともな状態である部位を探す方が難しかった。 指先には正常に生え揃った爪は見当たらず、その爪の生えるべき指は、明らかに彼女の意思に従った曲がり方をしていない。 下半身の状態は特に酷く、明らかに歩くことは不可能だった。
 顔が傷つけられなかったのは、やはりその美しさだろうか。いや、美しいと言うよりは、可愛らしいと言った方が正しく思える。 しかし、その顔も、床に広がる血だまりに伏したのか、紅に染まっている。
 衣服は既に元の色が分からない程に赤黒く染まっていて、面積も、かろうじて肌を少し隠している程度である。 そのボロボロに擦り切れた衣服の隙間からは、まだ新しい、深く抉られたような傷口が顔を覗かせている。
 目を覆いたくなるようなその姿は、彼女が意識を保っているどころか、生きていること自体が奇跡のように思えた。 しかし、黒人はそれでも尚、生きていられる種類の人間を知っている。

「キミもなのか……?」

 彼女がいるその隣の牢にいた人間も、恐らくはそうだったのだろう。
 そして、この要塞の主が何を目論むのか、想像するのは難しくなかった。 何処で知ったのかは知らないが、黒人と同じような体の人間の存在を、此処の主が羨んだとするなら、 そして、その主が、人間性だとか倫理だとか道徳だとかをまるで知らない種類だったなら、考えられる道がいくつかある。

 此処の主は、その中で最悪の道を進んだ。



「キミは、此処にどれくらいの人が捕まってるのか、分かるかな。いや、話せたらで良い。無理はしないで」

 なるべく怯えさせないように、胸中の怒りをなんとか抑え、黒人が優しく声をかける。 突然泣き出してしまった彼女に、どう対応すべきか迷いながら。
 その甲斐あってか、少女は泣き止み、どうにか問い掛けに答えてくれた。

「えっと……沢山……とにかく、沢山いました。 どこの牢からも、人の声が聞こえて……あれ? そう言えば最近あんまり聞いて……」

「ちょっ、ちょっと待って。沢山? 俺が見てきた牢には、一人もいなかった!」

 少女の独白にも近い回答を、黒人が遮る。
 黒人は全ての牢を覗いた訳ではないし、地下以外にも牢があるかもしれない。 しかし、それでも、地下の牢の半分、いや、三分の二以上は見た筈だ。 少女が言うように、どこの牢からでも人の声が聞こえるのなら、今まで見てきた中に、一人や二人はいてもおかしくはない。

「本当に、そんなに多くの人が、此処に?」

 少女の言葉の続きを思い出しながら、黒人が再度訊ねる。
 最近は人の声をあまり聞いていない。そう言ったような気がした。

「う、嘘じゃないです! 本当に……けほっ」

 ボロボロの体で叫んだからだろうか、最後まで言葉を続けることができずに、少女が苦しそうに咳き込んだ。

「大丈夫だ、疑ってる訳じゃない。あまり無理はしないでくれ、本当に死んじまう」

 少女の様子に、戸惑ったように黒人が言う。少女が落ち着くまで、それ以上は声をかけることもしなかった。
 そのまま彼女の回復を待つつもりだったが、そんな悠長なことは言ってられなかった。


「いたぞ! あそこだ!」

 要塞内から出て来た住人達が、黒人を見つけ、彼の首を取らんと、我先に迫って来る。
 しかし、黒人は、まるで気に留める様子も無く、牢の中に顔を向けている。
 そして、住人達は、黒人に銃口を向けた。





 杏には、何が起こったのか分からなかった。
 突然聞こえた怒号と共に、要塞の住人達が、クロによく似た青年に襲いかかってきた。 すると、青年が、一瞬、ほんの一瞬だけ彼らの方へと、目だけを向けた。
 と同時に、青年の体が透けた。それは錯覚だったのかもしれないが、 杏の目には確かに、彼の体に遮られて見えない筈の景色が映っていた。
 しかし、それも刹那のことで、瞬きの間に青年の背後は見えなくなった。ただ、彼の体勢は少々変わっていたが。

「何して……るんですか……?」

 問い掛ける杏に対する青年は、さっきまで杏にそうしていたのと同じように、穏やかな表情をしている。 杏を怖がらせない為の気遣いのようだ。
 しかし、今は、その彼の表情が、杏にはあまりにも不気味で、怖ろしかった。

 気が動転していた杏は気付かなかったが、彼の衣服や顔には、夥しい量の血が付着していた。 そして、青年が「透け」る前と後とで、明らかに付着している血の量が変わっていた。

「何って、此処の奴らを」

「殺したんですか?」

 青年の言葉を遮るように杏が言う。青年は、戸惑うように頷く。

「どうして……っ?」

 単純にして至極当然な質問に、青年は迷いなく答えた。

「だって、こいつらは、キミの大切な人達を殺したじゃないか。 キミだけじゃない。沢山の人達が大切にしていた沢山のものを、皆、皆奪ったんだろう?」






 黒人は、少女が突然、自分に恐れか不信感を抱いたことに気付いた。
 それは彼女の表情を見ているだけでも十分に分かったし、彼女の言葉の端々に、力なくも確かに棘があった。

 ――殺しは駄目なタイプか。明らかに俺が奴らを殺したことを非難している。それに――。

 即座にそれを理解した黒人は、不可解に思った。そして、あることを思い出しつつもあった。

「キミはそれを望まないのか? 親友が殺されても? 両親が殺されても? 兄弟が、恋人が、恩師が殺されても?」

 黒人は、自分の表情が強張ったものになっていることに気が付いた。自分自身が発した言葉が、目の前の少女に向けられていないことも理解できた。

 ――そうだ、あの人もそうだった。

 黒人の心は、いつの間にか、前後の繋がりを失くし、遠い過去へと向かっていた。 そのせいで、発する言葉までも支離滅裂になっていた。

「そんな訳が無いだろう? 憎い筈だ! 相手を自らの手で殺してもまだ足りない程に!  四肢を裂いても、首を落としても、腸を引きずり出して鳥の餌にしようとも! なのに、どうして――


 ――そんな風に、俺に『ありがとう』なんて言えるんだ?」






 青年の様子が変わった。
 妙に語気を強めて、目は、見開いたように杏の方を向いている。なのに、心が杏に向かっていない。 その上、青年は、次第に訳の分からないことを口走り始めていた。と言うよりは、話が前後で繋がらなくなっている。

「そんな風に……って、私は何も……」

「俺がこの子を殺したんだ! 見れば分かるだろう! 燃えて脆くなった支柱で、此処まで潰れる筈がない!」

 杏の言葉はまるで耳に入っていないようだ。
 青年は頭を掻き毟り始めた。がりがり、がりがり、がりがりがりがりがりがり、と。 やがてその爪が皮膚を裂き、彼の頭から血が流れ出す。それでも彼は頭を掻く手を止めようとしない。

 ――燃えた? 何が? この子って、誰?

 ますます繋がらなくなっている青年の言葉に、杏は混乱していた。ただ、彼の様子を見ていると、自分の事を責めているようにも見える。

「だから、助けに入っただけの俺に、感謝なんていらないんだ! 助けるつもりが、殺してたんだぞ!  これじゃ、殺しに入ったのと同じじゃないか! なのに、どうして……!」

 青年が突然、牢の鉄格子を掴み、叫んだ。その目は、許しよりも、断罪を乞うている。

 ああ、この人は――。

 杏が思うよりも早く、彼の体はすっかり、黒いもやで覆われていた。
 そして、それは、川が上流から下流へ向かって流れるような自然さで、杏の下へと流れ込んできた。

 ――この人は、自分を殺していたんだ。





 不意に黒人は正気を取り戻した。少女が再び苦しみだしたからだ。
 気付くと、黒人は全身が冷え切った嫌な汗で濡れていた。しかし、先程までと違い、妙に心が軽い。 ただ、そんな心の軽さは、少女の苦しむ様子に、即座に忘れ去られてしまった。

「だ、大丈夫かっ!?」

 どう見ても大丈夫ではなかったが、黒人には他にどう声をかけていいのか分からなかった。

「大……丈夫……です」

 少女も、誰がその姿を見ても医者に連れて行きそうな状態で、息を切らしながら強がって見せる。

「あなたが……一番許せないのは……あなたなんですね」

 苦しそうに呟く少女の不意な一言に、黒人の心臓が高鳴る。

「だから……同じような人を……許せない……」

 今にも死んでしまうのではないかと思わせるような姿で、尚も少女は話し続ける。

「許せない人達を殺すことで……昔の、自分自身を……」

「もういい、もういいよ」

 黒人が落ち着いた声で少女の言葉を止める。その時の黒人の表情を言葉に直すとしたならば、 きっと「どうして分かるんだ?」になるだろう。

「そうだよ。キミの言う通りだ。昔、色々あってね。どうしても、そう……人殺しって人種を許せない」

 「人殺しを許せない」その言葉は、普通の人間が言えば、「何を当たり前のことを」と鼻で笑われるかもしれない。 ただ、黒人の言う「許せない」は、その単語が持つ意味の枠を超えていた。
 彼にとっての「許せない」というのは、「生かしておけない」と同義だった。

 やがて落ち着きを取り戻した黒人は、自分の犯した罪を少しだけ話し、少女の回復を待った。 不思議と、今度は誰も襲っては来なかった。


 少女がゆっくりとこちらを見上げる。 黒人はそれを合図として、再び口を開いた。

「キミも、俺を許す必要は無いよ。許してもらうつもりも無い。だから、これから言うのはただの『取引』として聞いて欲しい」






 ――なんて悲しい人だろう。

 杏に流れ込んできたその黒いもやは、今までで最も色濃く、はっきりとした形を持っていた。 彼の記憶そのものが流れ込んできたような感覚さえした。

 どうやら、杏の能力は、この短時間で異常とも言える程の成長を遂げたようだ。
 先程の青年の様子は、恐らく杏の力によるものだろう。 彼の心のどす黒い部分を、杏が無理矢理引きずり出した。 青年が一時的に混乱に陥っていたのも、そのせいだろう。
 しかし、それは黒いもやの消失と共に治まったようで、やがて、杏も青年も落ち着いた所で、青年が口を開いた。



 最初は、青年の言っていることが、上手く杏の頭に入って来なかった。

「キミは必ず助け出してみせる。此処の奴らを鏖にするのは、その報酬だと思ってくれ」

 青年の顔は、至って真面目だった。冗談を言っているようには思えない。 しかし、杏にはその言葉が現実のものとは信じられなかった。
 呆ける杏に、青年は更に説明を続ける。

「や、だからな。キミを助ける代わりに、此処の奴らを鏖に」

「いや……です……」

 考えた訳ではなかった。
 気付けば、青年の言葉を遮るように、杏は明確な拒否を示していた。

「駄目……そんなのは……駄目……」

 杏が足を引きずって青年に近付く。当然、手は届かない。 しかし、縋るように、その傷だらけの手を、動かすだけで気絶しそうな痛みが襲うのも構わず、青年に伸ばす。
 青年は、今までで一番当惑した顔をしている。

「分かってるのか? 断るってことは、キミは死ぬまでこの中で、これからもどんどん犠牲者が増えるってことだよ?」

 半ば脅すように青年が言う。それでも杏は譲らない。

「だからって……あなたに人を殺させてまで、助かりたくなんか……ない、です」






 いよいよもって、黒人は困惑した。この娘は、命がいらないと言うのだろうか。
 いや、それぐらいは言うかもしれないと、先程までのやり取りでなんとなくは悟ってはいた。 しかし、黒人はその理由を、「人が死ぬのを許せない」のだと予想していた。
 予想外だったのは、彼女が、「黒人に人を殺させる訳にはいかない」と考えていたことだった。

「あなたと此処の人達は、同じなんかじゃない!  それなのに、あなたの言う通りにしたら、……げほっ、ほ、本当に、あなたは……戻れなく、なっちゃいます!」

 その言葉を聞いて、初めて黒人は、自ら裂いた頭の傷の痛みに気が付いた。 血は顎まで流れ、更に地面へと滴り落ちている。
 血を吐きながら、それでも話し続ける少女を、今度は止めることができなかった。

「大丈夫ですよぅ……あなたを責める人なんていません。責める方が、おかしいんですよぅ……」

 必死に泣くのを堪える子供のように、震える声で少女が言う。


 初対面の相手を想って、涙を流すことなど、どれ程の人間に出来るだろうか。
 長い、あまりにも永い間、自分が許せなかった黒人は、少女の優しさがたまらなく辛く、そして、



 泣きたくなる程、嬉しかった。





 青年が立ち上がった。後ろを向いていて、表情は良く分らない。 だが、杏はある種の諦めと共に、青年の、最後の言葉を覚悟した。

「分かった。キミがそう言うんなら、仕方が無い」

 溜息を吐くように言う青年の背中を見ることはできなかった。
 杏のそれは、あまりに悲壮な決意だった。深い絶望を、今だけはと、必至に抑え込む。 自然に彼女の顔は、下に向いていた。


 しかし、青年の言葉の続きは、思いもよらないものだった。

「文字通り、出血大サービスって奴か」



 月光が、光を増した。
 青年を見上げると、彼は杏の方へと向き直っていた。その表情からは、もう迷いは感じられない。 そして、その目は、今度こそ杏だけを見ていた。
 呆気に取られる杏に、青年は、確かな「希望」を放り投げる。

「それに、クロと約束したしな。ただし、報酬の残りは、ちゃんと別の形で返してもらうよ」

 不意に出たクロの名に、杏は口をぱくぱくさせることしかできなかった。
 やがて漏れ出た声は、言葉の意味を成さず、単なる嗚咽として、止め処なく溢れ続けた。





 最早、黒人は他の事を考えていなかった。

 全てに優先させるのは、目の前の少女の救出。後は、せいぜい敵を殺さない程度に力を抜くことぐらいだ。
 他は、どうでもいい。
 何より、クロとの約束と同時に、自分自身も、彼女を守りたかった。



 全ての行動のベクトルは、この娘の為に。そう決意した瞬間だった。



「会話中悪いんだがねぇ」

 不意に黒人の背後から、声がかけられた。 振り向くと、大柄な禿頭の男が、鉄パイプのような大きさの銃を肩に寄せ、黒人に歩み寄ってくる。



「――ちょっと待ってな。すぐに、全部終わらせてやる。何もかも、全部だ」



 黒人の目に、これまでに無い程の、力強い光が宿った。

 少女の前に立ち塞がる闇を、全て吹き飛ばしてしまう程の、光が。







番外4−11 END



※タイトル引用
ASIAN KUNG-FU GENERATION
「アフターダーク」





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