番外編シリーズ4
邂逅(8)
〜炎〜
満月が雲に隠れている。
杏の目の前には、大きな白い袋が転がっていた。
何かが包まれている。
「そいつが飯だ。これだけあるんだから、全部食い終わるまでは次の飯はいらないよなぁ?」
牢の外から声が聞こえる。ネジが飛んだような笑い声は次第に遠ざかって行った。
「どいつもこいつも、脆い奴らばかりではないか! いつになったら本物を見つけられるんだ!」
小男が唾を飛ばしながら喚いている。
「一人……と言っても、今生き残っているのはもうその一人だけですが、どうも当たりの可能性がありましてね。
……明日にでも次の段階へ進ませてみましょうか。それでも駄目なら仕方が無い。また、探してきますよ」
禿頭の大男は表情を変えずに言った。
「こんな……顔だったんですね」
袋に入っていたのは、人だった。
杏よりも幼く、顔だけ見ればただ眠っているだけのようにも見える。
今日は話す気力もないのだろう。
もう眠ってしまったのだろう。
必死にそう考えようとしていた。そうでもしなければ、壊れてしまいそうだったから。
それが、こんなにも残酷な形で現実を突き付けられるとは、杏も思わなかった。
袋の中に収まっているアンナの体に触れてみる。
それを後悔する程の感触だった。
普通の人間にはある筈の弾力がまるで無く、杏の手はずぶずぶとアンナの体の中へと沈んでいった。
その手は、そのまま殆ど抵抗も感じないままに骨へと到達した。
袋を赤く濡らし、そのまま杏の手にまで血が上って来るような錯覚さえ覚えた。
…………死体からそんな量の血液が出る事は無い。
「こんな……酷いよ……」
アンナの体から、その袋を剥ぎ取る勇気は、杏には無かった。
きっと、見たら今度こそ本当に何もかもが壊れてしまう。
あまりに非情な現実の悲しみと共に、杏の中に新しい感情が芽生えていた。
「飯だ」と彼らは言った。
アンナを喰えと、そう言った。
それが、杏には許せなかった。
その感情が憎しみだと、杏は分かっていた。
気分が悪くて仕方が無い。
得体の知れない獣が胸の中の肉をドロドロに溶かして食い荒らす。
憎悪が、杏の体を蝕んで行く。
『杏ちゃんは、絶対生きて、幸せにならなきゃね』
頭の中が真っ黒に染め上げられるその刹那、アンナの声が聞こえた気がした。
アンナを見てみるが、その表情は依然変わりなく、眠っているような顔だった。
「アンナ……さん?」
雲が途切れ、月の輝きが差し込んだ。
その明りにアンナの顔が照らされる。
それは、体の状態からは想像もできない程に安らかだった。
どうして、こんなにも穏やかな表情をしているのだろうか。
『杏ちゃんのお陰なんだよ』
聞こえる筈の無い声が、再び聞こえた。
何故? その答は、杏の力だった。
憎悪の黒が、アンナから吸い取った黒を同化させ、
アンナの思念とでも言うべきものが杏の中に流れ込んできたのだった。
それでも、今の声は、今までに聞いた記憶の無いものだった。
『杏ちゃんが私の苦痛を吸い取ってくれたから、私は最後の最後で解放されたの。
だから、ね? 悲しまないで。こんな世界に負けないで』
「うん……っ……」
アンナの体が崩れないよう、覆いかぶさるように優しく抱き締める。
アンナの頬に、冷たい雫が落ちる。それは、月に照らされて黄金色に輝いた。
その時、杏の中に、憎悪とは違う、別の熱い何かが宿った。
それは杏の中に溜め込まれた苦痛や悪意の黒を飲み込み、一層激しく燃え上がった。
やがて、熱が杏の外にまで放たれた。
熱は形を成し、紫の炎へと姿を変える。
杏には、それが何かなどという疑問すら持たなかった。
これが、杏の本当の力。
それが自分の意のままに出来る事を知り、考えるまでもなく、扱い方が自然に分かる。
「……こんな姿じゃ、可哀想ですもんね」
誰に言うともなく、杏が呟く。
そして、今度は強く、強くアンナを抱き締める。
炎までもがアンナの体を包み込む。
杏の腕の中に包まれたアンナが、次第に灰になって行く。
直視するのは辛かったが、杏は最後までその姿から目を逸らさなかった。
ありがとう。これで……外に…………。
風が吹き込み、杏の手の中に残っていた灰まで残さずに牢の外へと運び去って行く。
もう、声は聞こえなかった。
「さようなら…………」
夜空へと舞う灰を、杏はいつまでも見守っていた。
そして、杏も次第に外へと想いを馳せるようになる。
もう、さっきのような力は出ない。その為の苦痛は全て炎が持って行ってしまった。
しかし、それを蓄えると言うのは、更なる苦痛を味わうと言う事だ。
誰か、助けて……。
いる筈の無い「誰か」が来るその時まで、私はその苦しみにも耐えて見せるから。
そう願った。
突然の轟音、銃声、絶叫。
驚き、目を開けた杏の目には満月の光が差し込まなかった。何かが影を落としている。
「……やっと見つけたぞ。世話ぁ焼かせやがって」
不意に頭上から降りかかってきた声に、顔を上げる。
「今の灰は狼煙代わりか?」
そこにいたのは、ずっと祈り続けていた、有り得ない筈の「誰か」だった。
番外4−8 END
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