番外編シリーズ4




邂逅(6)
〜夜明け前〜






 最初に辿り着いた街で意識を失い、倒れた。


 目を覚ますと、良い匂いと温かい空気に包まれている事に気付く。

 体には、白くて長い布が巻き付けられていた。
 立ち上がろうとすると、体がふらつき、また倒れた。







 消え入りそうな声でアンナが言う。

 ああ、月はあんなにも大きかったのか、と。

 杏も、恐らくアンナがそうしているように、月を見上げる。
 もうすぐ満月だろうか。

 そうですね、とだけ杏が返した。





 次の日の事だった。

「杏ちゃん……?」

 隣から、いつものように声が聞こえた。
 杏も、その声に近寄ろうと、微かに開いた穴に向かって這いずる。
 そして、壁に寄りかかり、息を落ち着ける。
 毎日やってきた事だった。


「大丈夫ですよ……生きてます」

「そっか、よかった」

 ただそれだけのやり取りが、杏の心を支えてくれる。
 アンナにとっても、これが支えになっているのだろうか。 アンナは、杏にも聞こえる程の大きな溜息を吐いた。

「今日も、辛かったね」

「え?」

 杏にとっては意外な言葉だった。
 アンナが弱音らしい弱音を吐いた事は、覚えている限りは無い。
 しかし、冷静に考えてみれば、自分よりも年下の女の子が、 こんな目に遭っていて、平気でいられる筈が無い。
 この程度、本来ならば当然の言葉だろう。


「そう……ですね。でもっ、きっといつか逃げ出せる筈ですよ。頑張って、生き抜きましょう、ね?」

 根拠のない希望は、時として逆に相手を失望させる事もある。
 しかし、何故だか杏は、生きろと、そう言わずにはいられなかった。


「うん……そうだね。杏ちゃんは、絶対生きて、幸せにならなきゃね。 こんなの、全然大したことじゃ無かったって、笑い、飛ばせるぐらい、幸せ、に、なって…………」




 アンナが咳き込む。その音は、いつだったか、杏が経験したような、水でも吐き出すかのような、濁った咳の音だった。

「大丈夫ですかっ?」

 アンナを心配して、杏が言う。

 アンナは、大丈夫だ、と、ただその一言を言おうとして、何度も咳き込んだ。
 その度、床に何かがびちゃびちゃと零れるような音が聞こえた。


 しばらくして、壁を挟んだ向こう側で、こつん、と軽い音がした。
 アンナが壁に寄りかかったのだろうか。咳は止まったようだ。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 とてもそうは思えないような弱々しい声で、アンナが言った。
 その一言が聞きたかった筈なのに、杏は、胸が目の粗いやすりで削られるような心地がした。

「本当に、大丈夫なんですか?」

 繰り返し訊ねる杏に、アンナが茶化すような返答をする。

「大丈夫じゃなかったら、こんな風に話せないわよ」

 くすくすと笑っているような声も聞こえる。
 それでも、杏の不安は消えなかった。

「アンナさんも、生きてここを出ましょう? あなたも幸せに……」

 声が震える。それでようやく、杏は自分が泣いている事に気付いた。
 泣いているの? と訊かれたが、今だけはそれを悟られたくなくて、必死になって否定する。

 涙を拭い、月を見る。


 そして、ようやく、気付いた。


 満月が近いと言うのに、月が見えない。
 黒いもやのようなものが月にかかっているのだ。

「今日は……月が見えませんね……」

 少し残念に思いながら、杏が言う。



「そう? すごく綺麗に見えるけど?」

 アンナから意外な言葉が返された。

 不思議に思った。一部屋隣に行くだけで、邪魔にならなくなるようなもやには思えない。

 どうにか確かめる方法は無いものかと、杏が意味も無く月のある方へ手を伸ばしてみる。
 すると、妙な事が起こった。
 自分の手が、そのもやに隠れてしまったのだった。
 それによって杏は理解できた。このもやは、自分の目の前にあるのだ。

「これは…………」

 もやの跡を追ってみると、どうやらこれらは杏とアンナを繋げる小さな穴から出ているもののようだった。
 しばらく迷うように漂っていたが、やがてそれは、杏の中へと入って来た。

 杏の鼓動が激しくなる。
 胸が締め付けられる。
 肺の中の空気が無理矢理押し出されているかのように呼吸が苦しくなる。

 随分前に経験した事だった。
 人の苦しみや、悪意が形になって目の前に現れる。


「ねえ、どうかしたの? 大丈夫?」

 呼吸が荒くなっている事に気付いたのか、アンナが訊ねる。

「ううん、大丈……夫、です。前から時々あったことだから……」


 その言葉に何か思うところがあったのか、しばらく考えるような間を置いて、アンナが言う。

「そっか、杏ちゃんの力なんだね」

「え?」

 意味が分からず、杏には何も言えなかった。



 アンナの言う事には、自分達には何かしら、不思議な力があるらしい。
 その目覚めと、死ににくくなった事は、関係があるらしい。


「きっと、その力だよ。何だか、私、今すごく楽になってる」

 杏の力は、相手の苦痛を吸い取るものらしい。
 しかし、吸い取られた苦痛は、杏に溜め込まれる。


「あはは、損な能力ね。でもありがと」

 アンナの声が随分穏やかになっている。
 杏にはそれが嬉しかった。そのためならば、多少の苦痛を吸い取っても良いと思えた。

「おかげ様で、今日は安らかに眠れそう」




 ずるり、と壁の向こうで音がした。

「あはは、死んじゃうみたいな言い方ですよ」

 ずるり、ずるり、と音が続く。

「あはは、そだね。でも……ごめん……今日はもう……眠らせ……て…………」

 ずるり、ずるり、ずるり。音が続く。

「おや……す……み………………」



 音が止まった。



「おやすみ……なさい」

 壁を挟んだ杏には、そう言う以外、何もできなかった。


 その日、杏は眠らなかった。眠くもならなかった。
 返事が無いのを知っていて、話し続けた。






 次の日、アンナは戻って来なかった。







 明け方の田舎道を、一匹の犬が歩いている。
 誰が巻いたのか、その黒い毛並みとは対照的な白い包帯が目立つ。
 しかし、どれぐらい歩いて来たのか分からないが、その包帯は泥で汚れてしまっている。



 やがて、その犬は歩みを止めた。
 そこは一軒の家の前だった。

 ドアのすぐ近くで、わん、と一声だけ鳴いた。
 反応は無かったが、犬は数歩足を引き、大人しく待っていた。



 辿り着いた時には東に見え隠れしていた太陽が、頭上で照りつけるようになった頃だった。

 鍵の開く音は、その犬も何度か聞いた事がある。
 犬の期待通りにドアが開き、中から人間が出てくる。



 その犬に人間の年齢はよく分からなかったが、自分の飼い主より幾分か年上であるように感じた。
 片目だけ隠れてしまいそうな伸び方をした無造作な髪をかき上げ、あくびをしながら出てきたその男に、犬が駆け寄った。

 驚く男の手には、黒い薄手の手袋が着けられていた。眠っている時にも着けているのだろうか。


 犬は、吠えたてたり、周囲を走り回ったりはしなかった。
 男の目の前に座り、ただじっとその男を見据えていた。








番外4−6 END








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