番外編シリーズ4
邂逅(5)
〜隣人〜
「あなたは……?」
穴が小さく、相手の姿は見えないが、声だけは通る。
隣の牢から、確かに自分のものとは違う声が返ってくる。
「仲間みたいなものよ。あなたの」
声量そのものは小さいが、芯の通った声だった。
少しでもその声に近付きたくて、杏は穴の近くに寄りかかった。
相変わらず右肩は動かせない程に激しく痛むが、
敵意の無い人と話せた喜びがそれを少しだけ和らげてくれた。
「名前を聞かせてくれるかしら」
声が杏に訊ねる。さっきよりも声が近付いている。
「杏……です」
杏は何も考えずに、ただ名前を告げる。
「へえ、アンちゃんって言うんだ。面白いわね、私はアンナって言うの」
「アンナさん?」
たった一文字、あるか無いかの違いだった。
不思議な巡り合わせだとも杏は思ったが、それ以上に不思議に思う事もあった。
「アンナさんは……こんな所に閉じ込められているのに、平気そうですね……」
翌朝、杏の目が覚めた時には、既に隣の声の主はいなくなっていた。
昨日、自分を撃った人間達に連れて行かれたという事は何となく理解できた。
そして、自分の番がすぐだという事も。
ちゃんと戻ってくる事ができるのだろうか。生きて逃げ出す事はできないのだろうか。
あれこれ考えている内に、杏の牢の扉が開いた。
杏が連れて行かれたのは、昨日とは違う場所だった。
この日の昼間、杏が覚えているのはここまでだ。
正気を保っているとは思えないような笑い声が耳に残っている。
意識を取り戻した杏は、いつの間にか自分が牢に戻っている事を知った。
目を開けてみると辺りは暗く、再び月が遠い空で輝いていた。
夢だったのか?
とりあえずは体を起こそうとした。
しかし、体が動かなかった。痛さの余り、麻痺している。
しかも痛みがあるのは右肩だけではなくなっている。
思わず杏は声を上げそうになったが、それすらもできなかった。
代わりに激しい咳を何度もしたが、その度に激痛が体を駆け巡った。
息を吸おうとしても、後から後から咳が出てくる。咳が出る度に、痛みに身悶えた。
やがて、咳の調子が変わる。
さっきまで乾いた咳だったのが、例えるなら、水のようなものを吐き出しているような…………。
苦しい! 痛い!
そう叫べば、痛みは治まるのだろうか。
馬鹿な。
杏は、ただ、襲い来る苦痛に体を蝕まれる事しか、できなかった。
「大……丈夫?」
どれぐらい経ったのだろうか。ようやく咳の落ち着いた杏の身を案じるようにアンナが声をかける。
杏は、声も出ない程に疲弊していたにもかかわらず答えようとするが、それを先にアンナの声が制する。
「ごめんなさい、答えなくても良いのよ。ホントに死んじゃうかもしれないんだから。生きてるって分かってるから、大丈夫」
自分の話を聞いてくれているだけで十分だ。アンナはそう付け足した。
アンナは何ヶ月か前から牢に入っているらしい。毎日、今日のような目に遭っているようだ。
勿論今日だって例外ではない。しかし、最初に比べると、話す余裕ぐらいはできたらしい。
「これもあいつらの言う事の証拠。私達はそう簡単には死なないみたい」
かと言って、絶対に死なない訳ではない。何人もこの牢の中で死んでいった人がいる事をアンナは知っていると言う。
「あいつらも言ってたでしょう? 本当の不老不死を探すんだって。その為の拷問らしいわ」
拷問の内容は次第に過酷なものになっていく。最初の内は常人でも頑丈な人なら耐えられるレベルだが、
やがて攻撃の対象が致命的な箇所に近付いて行く。
最終的には、普通の人間ならば確実に致命傷になる所から責められる。
心臓や頭などの下手をすれば即死するような箇所でも容赦は無い。
勿論、今までそれらを耐え抜いた者などいない。
「ここの主はまだ可能性を信じてるみたいだけどね、他の奴らはもうそんな事に興味が無いみたい。
楽しんでるのよ。苦しめたり、傷つけたり、殺したり」
その言葉で、杏の脳裏に断片的に記憶が蘇る。
笑いながら、何度も何度も頭を踏み続ける姿があった。
次の日の朝、目を覚ました杏が見たものは、床一面に広がる吐血の痕だった。
毎日、意識と記憶を失う程の拷問を受け、杏の体はあっと言う間にボロボロになって行った。
ただ、下卑た笑い声と、死んだ方が楽になれるのではないかと思えるような苦痛ばかりが残った。
もはや、何日経ったのか、そんな概念すら杏の中からは無くなっていた。
それでも心が壊れてしまわなかったのは、毎日隣から聞こえてくる声のお陰だった。
聞いていると、不思議と痛みが和らぐような気がする。
頼りなく、弱々しい声だが、杏の心を保たせるには十分な優しさだった。
アンナだって、底知れぬ苦痛を日常として強要されている。
話すのも辛い日だって、何度もあった筈だ。
それでも、アンナは毎日、杏に話しかけた。アンナ自身も、それだけを楽しみにしている様子だった。
お互いに、何を話したのかすらあまり問題ではなかった。
いつか、アンナの顔を見てみたい。
そんな思いが、杏の心に芽生えていた。
アンナの話は本当だった。
次第に、杏の体は苦痛に耐えられるようになっていた。
その為、暫くするとアンナと会話することまでが可能になった。
自分の体に起こった事を、不思議に思うよりも、その事が嬉しかった。
この絶望的な空間の中で、今はそれだけが生きる希望だった。
アンナは杏よりも年下らしい。背もあまり高くなく、茶色っぽい髪だと言う。
「いつも不思議に思うの。私、もう成長もしないのに、どうして髪だけは伸びるんだろうってね」
「きっと、代謝機能は残っているんだと思いますよ」
そんな意味の無い会話を、どちらかが眠るまで続けていた。
話す時、杏は決まって穴の近くに寄りかかっていた。
アンナもそうしているようだ。
杏にとって、アンナは自分の心を絶望の淵から救い上げてくれた恩人になっていた。
「犬がいたの?」
「はい、大きな黒い犬なんです。クロって言うんですよ」
「生きてると……良いね」
「……はい」
その日は、珍しく杏が自分の身の上を話していた。
クロは、誰かに救われただろうか。
番外4−5 END
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