番外編シリーズ3
GHOST(4)
〜教室まで〜
「どうしたんだよ、急に教室に戻ろうだなんて」
彼の手を引っ張って屋上から立ち去る。彼の顔が少し赤いとかは今はいい。
「や、なんとなく、雨でも降ってきそうだなーって思いまして」
あからさま過ぎる嘘だ。
珍しくもう少し危ないことのようだが、その程度はよく分らない。
ただ、屋上にはいない方が良い。
「なんだよ、そりゃ。つーかよ、昨日から思ってたんだけど、どうしてお前、ずっと敬語なんだ?」
今、そんなどうでもいいことを聞くか。
「や、なんとなく」
最初に緊張してたのをそのまま持ち越しただけなのだ。特に理由は無い。
「お前、なんとなくばっかりだなー」
けらけら笑う彼のなんと無垢な事か。信じてついて来てくれるだけありがたいとしよう。
「……だからもう別に敬語とかはいらねーだろ。タメなんだし」
「はいはい、分かりましたー! これからはちゃんとタメ口で話すから。それで良いんでしょ?」
教室に着いてもまだ言っている。入った瞬間の空気の凍り付いた感覚はあまり気持ちの良いものではなかった。
それにしても、屋上の何が危なかったのだろうか。
例えば、フェンスが老朽化でもしてて外れやすかったとか? 昼休みから練習している野球部の流れ弾でも?
この高校の野球部はよく飛ばすとは聞いている。
そういえば有力な選手が転校して来たとか同じクラスの野球部員が言っていたような気がする。声が大きいらしい。
それはいいとして、屋上で考えられる危険など、そんなものだろう。まさか飛行機が落ちてくるなんてものは考えが飛躍し過ぎている。
それなのに、あれはあんなにもはっきりと現れた。
前にあれぐらい見えた時は何が起こっただろうか。よく思い出せないが、碌な事にはなっていなかった筈だ。
なんだか柄にもなく胸騒ぎがする。
「……るように。繰り返します」
いつの間にか、教室が静まり返っていた。放送がかかっている。
普段は校長の話でさえ誰も聞こうとすらしなかったが、今日は少しばかり様子が違う。
「……の高校に乱入。幸いにも死者はいなかったようですが、多数の負傷者が出ています。
犯人は逃亡を続けており、依然捕まっていません。付近の学校にも危険が及ぶ可能性がありますので、本日は授業を中止、
連絡が終われば速やかに下校するようお願いします。
現在も捜査は継続中です。十分に用心して下校するように」
放送が途切れた途端、教室の中は騒然とし始めた。
休校を喜ぶ者、それを不謹慎だと諌める者、影も形も分からぬ犯人に怯える者、何を考えてるのか分からない者。
なんとなく嫌な予感がしていた。同時に、背中に悪寒が走った。
見えたアレは、何を伝えようとしていた?
犯人は何処に「いる」?
不安になって彼の方を見た。
途端に、私は戦慄を覚えた。息が止まるかとさえ感じた。
「あの……?」
恐る恐る彼に話しかける。
私の弱々しい声に気付いた時には、彼の顔はいつもの表情に戻っていた。
「ん? どうした?」
「あ……や、なんか怖い顔してるなーって……」
続きを言おうとしたその時、アレが自分の真後ろに立っていたのに気が付いた。
全身に鳥肌が立った。そのくせ、嫌な汗が噴き出している。心臓を掴まれるような感覚に、吐き気がこみ上げてきた。
彼が、心配するように私の顔を覗き込む。
「おい、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
人を心配するのがこんなにも似合わない男は初めて見た。しかし、そんな彼を笑う余裕など無かった。
「に、げ……逃げてっ! 皆、逃げてえぇ!」
私が悲鳴に近い声を上げたのと同時に、廊下から本物の悲鳴が聞こえてきた。その声の主は私達の教室に逃げ込んできた。
遅かった。何時の間にこんな所まで潜り込んだのか。私達の前に「犯人」が立ちはだかる。
クラスメート達は一様に悲鳴を上げ、一斉に犯人とは反対側である窓際に逃げた。
「このクラスでいいかぁあ。このクラスでいいやぁあ」
男は耳障りな甲高い声で訳の分からない事を叫びながら、一歩踏み出した。
その大袈裟な動きが、それだけで皆の恐怖を煽った。女子なんかは、涙を流して絶叫し続けている。
少しでも安全になるように、身をかがめている者もいる。
私はむしろ逆だった。恐怖のあまり、声を出す事もできず、自分の席から動く事さえできなかった。
「誰にしよう誰にしよう、お前? お前? お前?」
男がナイフの切っ先をクラスの一人ひとりに向ける。その度に、向けられた生徒は悲鳴を上げた。
それを聞いて男はいやらしい顔でにやにやと笑っていた。
やがて男は私に気付いた。狂ったようなその目から顔を背けることもできない程、私は凍りついていた。
呼吸が荒くなる。
男が一歩、私に近付くごとに、心臓の鼓動が激しくなる。
けたけた、けたけたとその男が気味の悪い笑い声を上げる。聞いているだけでこちらまで気が狂いそうだ。
男は私達の怯える顔を楽しむように、わざとゆっくり近づいてくる。
それだけでも十分、皆はパニックに陥っていた。勿論私も、反応が違うだけで、頭の中は恐怖が支配していた。
「ほほほほぉら、切れちゃうよ、死んじゃうよぉお!」
ナイフが私の目の前で光る。体の自由はきかないくせに、震えがまるで治まらない。
もう頭の中は滅茶苦茶だ。自分が何を考えていたのかすら分からない。
ただ、クラスメート達の悲鳴が耳障りだった。
その悲鳴に混じって、男の笑い声がこだました。
それを一瞬にして掻き消したのは、ひどく鈍い音だった。
ごつん、というのが最初に考えたその音のイメージだった。
その後ではっきりと覚えているのは、男が頭から血を流して倒れていたのと、
恐らくはその原因である血痕の付いた椅子と、それを強く握りしめている、金髪の彼。
そして、私が床に尻もちをついていたことと、怖くて涙が止まらなかったことだ。
番外3−4 END
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