第三話
晴れた日には
杏は牢屋に横たわっていた。
鉄格子の先から月を見ていた。
腕には鎖がついている。
その檻に入ったまま何年が経ったのだろう。
もうこれ以上視るのは嫌だ……。
このままじゃ耐え切れない。
「心」に押し潰される。
誰か、助けて……。
杏の目から涙がこぼれたその時、悲鳴が聞こえた。
さらにはいくつもの破壊音。
「なんだ、コイツは!?」
「一人で攻め込んで来やがった! 舐めやがっ」
ドンッ
「ぐあぁ!」
何が起こっているのだろう。
破壊音がどんどん近づいてくる。
様子を見てみようかと体を起き上がらせた瞬間。
月の光を人の影が遮った。
返り血を浴び、その体は所々紅く染まっている。
左手に真っ黒な手袋をつけている。
その眼には異常な威圧感がある。
あっけに取られている杏を見て、その影は言った。
……やっと見つけたぞ。世話ぁ焼かせやがって
「ん、起きたか。……どした、複雑な顔して」
黒人が朝食の準備をしていた。
「あ、いえ、おはようございます。……その……昔の夢を見てて……」
「昔? 珍しいな」
「はい……。あ、手伝います」
「おう、わりぃな」
彼らは毎朝先に起きた方が朝食の準備をする。
二人ともそれなりに料理はできるのでこれと言って問題はなかった。
洗濯や掃除も気が向いた方がやる。
しかしどちらかがはじめると結局もう一人も手伝うことになり、
最終的には二人で終わらせる。
普段は食事を済ませた後は適当に暇を潰しながら依頼者を待つ。
一日に数人来る日もあれば、一人も来ないこともあった。
それでも何故か生活に困る事は無かった。
もちろん毎日ずっと仕事をしているわけではない。
今日は黒人が適当に決めた休日だった。
食事を終えた後、黒人が大きく背伸びをして言った。
「あー、食った食った。
杏ちゃん、今日は良い天気だし、どっか買い物でも行くか」
「お買い物ですか?」
「そ。昨日の分の報酬が思ったより入ったからな。
あのおばさん、子どものお守りで十万もくれるとは思わなかったよ」
「ふふっ、大変でしたけどね。やんちゃな子で」
「杏ちゃんには大人しかったけどな」
「そうでしたか?」
「ま、いいや。支度してきなよ。
好きな服でも買ってやるから」
「本当ですか!? やったぁ! じゃあすぐに支度してきますね!」
「口元の米粒はとっときなよ」
「うわぁー! この辺りも変わりましたねー!」
「ちょっと来ないだけで知らねー建物とか建ってるしな」
そんな会話をしながら二人は歩いていた。
街中は老若男女たくさんの人で賑わっていた。
街の男達は杏の姿に皆振り返った。
「あそこのお店なんかどうですか?」
「行ってみるか」
「いらっしゃいませ」
店員が笑顔で迎えた。
二人が服を探していると時々オススメ商品などを勧めてきたりもした。
「ど、どうですか?」
試着室から出てきた杏は白のワンピースを着ている。
「素敵! よくお似合いです、お客様!」
店員が杏を褒める。
「どうですか、くろさん?」
「いいんじゃねぇのか」
黒人は軽く言った。
それでも杏には嬉しかった。
「えへへー。じゃあ店員さん、この服、ください!」
「お買い上げありがとうございます」
袋を両手で抱きかかえて店を出て行った二人を見て、店員達がひそひそ話していた。
「かわいかったねー、今の娘!」
「いくつなんだろー。ねぇねぇ、あの娘、どうだった!?」
「あの娘が笑うとなんだか癒されたわぁー」
「一緒にいた男の子、彼氏なのかな?」
「そうなんじゃない? 仲良さそうだったし!」
「なんか面白い格好してたね。片手だけ手袋してて」
「ファッションじゃないんなら、例えば昔の傷跡を隠すためとか?」
「えー、どんな所でそんな傷つくのよ」
「結構やんちゃしてたんじゃない?」
「それよりさ、優しそうな顔してたよー。物静かな感じだったし」
「そお? 目が恐かったと思うけど」
「ううん、彼女に優しく微笑みかけたりしてたのよぉ!」
などと話していると店長が、
「お前ら、そういう話は仕事終わってからにしろーぉ!」
とやって来た。
「はーい」
店員は打ち合わせでもしたかのように声を揃えた。
「いっぱい買っちゃいましたねー」
杏の持っている袋には服が何着も入っていた。
「女の買い物にしちゃ少ないほうだけどな」
「そうなんですか?」
「まだこういうのには疎いんだな」
「くろさんもそんなに詳しくないんでしょ?」
「まあ、な」
「それで、これからどうしますか?」
「んー、そうだな。腹減ってないか?」
「わ、もうこんな時間だったんですか」
あと十分もすれば時計の針が12で重なりそうだ。
「どっかで飯でも食うか」
二人が適当な食事処を探していると、突然後ろから悲鳴が上がった。
「誰かー! そいつを捕まえてくれー! ひったくりだー!」
「へへっ、バーカ! 捕まえれるわけねーだろ!」
ひったくり犯はバイクに乗っていた。
突然捕まえてくれと言われても素手の通行人にそれを止めるのは確かに無理がある。
そもそも、追いつくこともできるはずがない。
偶然そこにいた二人を除いては、だが。
ダッ
悠々と逃げようとしているひったくり犯の後ろから、足音が近づいてきた。
バイクに乗っているのに?
不審に思って振り返ったが、誰も追ってくるものなどいなかった。
空耳か。そう思って再び前を向き直そうとすると、目の前に信じられない光景があった。
「ったく、昼飯前に余計な体力使わせんなよ」
バイクと並んで走っている人影があった。
ややバイクよりも前を平然と走っている。
「な、なんだ、てめぇは!」
「よく聞かれるなー、俺。
とりあえず知らなくていいから」
そう言った黒人が地面を蹴り、ふわりと浮いた。
その分減速し、バイクが追いついた辺りでその体を捻った。
と思った時にはもうひったくり犯に黒人の足が綺麗にヒットしていた。
ひったくり犯はバイクから転げ落ちた。
鼻血を流しながらうずくまる男に、黒人が言った。
「金が欲しいんなら、ちゃんと自分で稼げ」
駆けつけた警察官に犯人を引き渡すと、黒人は来た道を引き返し出した。
その時、警察官に言われた。
「君ィ! ひったくり犯逮捕の協力、感謝するよ!」
黒人は振り向かずに頭を掻きながら手をひらひら振った。
「あ、どうでしたか?」
「ん? ああ、別になんともねーや。足で止めようとしたら吹っ飛んじまった」
「ちょっとは手加減しないと疑われますよ?」
「バイクに追いついた時点でアレだけどな。
さ、飯屋探そうぜ」
「あ、はい」
二人は再び歩きはじめた。
「ここなんかいいんじゃないですか?」
杏が言ったのは五分ほど経ってからだった。
「色々あるみたいですよ」
二人が席に着くと店員が注文を取りに来た。
「お客様、ご注文は?」
「私はこのカレーライスをください」
「俺はざる蕎麦。大盛りで」
「かしこまりました」
店員は店の奥に向かった。
「おいしいですね」
「ん」
やがて二人とも食べ終わった時に、店員がやって来た。
「お客様、デザートなどいかがでしょう」
「んー、俺はいいや。杏ちゃんは?」
「頂いてもいいですか?」
「杏ちゃんの好きにしなよ」
「あはっ、ありがとうございます。じゃあお願いします」
「こちらデザートのメニューでございます」
「わ、いっぱいですね。うーん……」
「ゆっくり選びな。別に急いでる訳じゃないし」
「うーん……、それじゃあこの苺のケーキにします」
「かしこまりました」
少し経つと苺のクリームが使われたケーキがテーブルに置かれた。
「うわー、おいしい! くろさん、食べてみませんか?」
「んー?」
気のない返事をすると黒人が身を乗り出して、杏に顔を近付けた。
「な、なんですか?」
「や、ちょっとな」
そう言うと黒人は杏の口元に付いていたクリームをなめた。
「ふーん、甘いな。杏ちゃんこういうの好きなのか。
……どした?」
杏が石のように固まっている。
黒人は特に何を気にするでもなく、サービスで出されたコーヒーを飲んでいた。
苦くはないのだろうか、ブラックのまま飲んでいた。
「ありがとうございましたー」
店を出てからしばらく、二人は黙ったまま歩いていた。
やがて杏が口を開いた。
「びっくりした……。いきなりあんな……」
まだ顔が赤い。
黒人はその杏の様子を見て笑った。
「何赤くなってんのさ」
「だって……」
突然あんなことをされれば驚くに決まっている。
黒人はこういうのには相当疎かった。
そのため、長年杏の気持ちには気付いていないようだった。
「なあ、久しぶりにさ、あそこに行かんか?」
「あ、あそこ?」
「ああ。まだ時間もあるし、今日は暑いし、
ちょうどいいだろ。涼しそうだぜ」
「あ、あそこって、あの滝ですか?」
「あたり。買った物家に置いてから行くか。一回戻ろう」
「あ、待ってください」
我に返ったように黒人を追いかけた。
荷物を置いてから二人は滝の方角に歩きはじめた。
黒人と杏が住む街には自然がそれなりに多く残っている。
山や川、湖から雑木林など、この時代にしては珍しい程に街中に佇んでいた。
滝もその一つだった。
黒人がこの街に居を構えたのはそういう自然が好きだったからかもしれない。
滝は街で最も大きな山中にあった。
見に行くというのにもなかなか体力の要る道のりだ。
途中休憩所がいくつかあった。
だが二人ともその体のせいか、休むこともなく、
他愛のない会話をしながらさっさと登って行ってしまった。
「あの二人、息一つ切れてなかったぞ……」
そんな声が聞こえて、二人はくすくす笑った。
やがて、山中の樹木が途切れ、巨大な滝が二人の目の前に広がった。
「何時来てもすごいですねー」
「あー、いい飛沫」
静かな山中、聞こえてくるのは小鳥のさえずりと滝の音ばかり。
その中にいると、強い日差しもほんのり和らぐ。
やがて、清らかな風が髪を撫でた。
この場所は、割と有名なのだが、今日はどういうわけか人一人としていなかった。
「いい気持ち……」
この場所に来ると、癒される。
杏は、木漏れ日の中、目を閉じた。
「誰も来ねーな」
「そうですね……」
と、目を開けると、いつの間にか黒人が杏をおんぶしていた。
「ふわぁ!? な、何してるんですか!?」
「せっかく誰も来ねーんだから、いーもん見せてやるよ。ちょっと目ェ閉じてな」
「いいものって……。きゃあ!」
黒人が地面を一蹴りするとあっという間に蹴った地面が遠ざかり、
空に向かってぐんぐん上昇していった。
「ほら、着いたぜ」
「う……」
杏が目を開くとそこは滝の上だった。
そこから辺り一帯の街々が全て見渡すことができた。
「どーだ、この眺めの感想は」
「すご……い……」
杏は開いた口が塞がらなかった。
「はは、驚いてるな」
そう言って黒人は笑った。
「……」
その笑顔を見て、杏が懐かしそうに言った。
「いつの間にか……毎日私に笑いかけてくれるようになってくれましたね」
「え、そうか?」
「はい。昔は全然笑わなかったじゃないですか。初めて笑顔を見た時のこと、今でも覚えてます」
「うーん、あんまり意識してなかったな」
「いつまでも一緒だって言ってくれました。
すごく……嬉しかったんですよ」
「そんなこともあったかな」
黒人は頭を掻いた。
しばらくの沈黙の後、杏が、
「私、笑ってるくろさんのこと、大好きです」
そう言って照れ臭そうに笑った。
「そっか、じゃあずっと笑ってなきゃな」
黒人の答えに、杏は再び石のように固まった。
傾きかけた太陽の光が、二人を優しく包んだ。
第三話
END
←第二話へ