第二十話
ストーカー
「この人……まさか……」
呆気にとられる杏を逃がすまいと入り口に佇み、
犯人の姿が、月明かりに照らされ、露になった。
「長く生きてきたが、こんな奴は初めてだよ! ったく!」
黒人は即座に「図」の能力を発現させた。
「無事でいてくれよ……!」
黒人は図上に紅く光る点に飛び込んだ。
東から太陽が昇り、南の空へと高く。
遥か昔から続くその「習慣」。
自分達さえも生まれていなかった頃からそれは続いていた。
そう思うと、何とも言えない不思議な気分になった。
自分達は太陽を見ているのか。
それとも、太陽の姿を借りた「過去」を見ているのか。
ああ、そんな事をいつまでも考えていたところで、世界が変わる訳でも無い。
その力を持っていないかと言うと、案外簡単にひっくり返す事はできそうだ。
でもまあ、する気も無いし、やったところで得る物も特に無い。
……もういいか。そろそろ朝飯の準備でもしよう。
ぼんやりと考えながら黒人は体をゆっくりと起こした。
大きく欠伸をした。
良い天気だった。
「おはようございますー」
寝惚け眼を擦りながら杏がリビングに入った。
「や。ちょっと待ってくれ。すぐ出来る」
「あ、すみません」
朝食を食べながら、何気無い会話をする。
テレビでは有名な観光地を笑顔のアナウンサーが紹介している。
何事も無い、平和な朝だった。
「杏ちゃん!」
杏は、壁にもたれかかるようにして立っていた。
どうやら「彼」の「邪」がかなりの力だったらしい。
息も荒くなっていたが、どうやら無事ではあるらしい。
「く、くろさん……」
「大丈夫か?」
「はい……。少し、ふらついただけです。大丈夫」
何も無い空間から突如姿を現した黒人を見て、「彼」は些か驚いた。
が、次の瞬間には、黒人を敵とみなし、襲い掛かった。
戦場としては、あまりにも狭いその一室で。
チャイムが鳴ったのは太陽が世界の真上に来た頃だった。
この日、珍しく黒人が対応した。
「いらっしゃい。お客さん?」
「あ、はい、一応……」
大人しい感じの女性だった。
二十歳ぐらいだろうか。
前髪がかなり長く、目を覆ってしまいそうだ。
「じゃ、上がって」
「お、お邪魔します……」
少なくとも、見た目は黒人の方が年下に見えるのだが、立場は黒人の方が上のようだ。
「いらっしゃいませ」
高校生ぐらいに見える少女が部屋の中で出迎えた。
さすがに目的地を間違えたかと思ったようだった。
「あの、ここって本当に何でもしてくれるって所なの?」
「あはは、よく言われます。あれ? あなたは……」
「あれ? 知り合いだった?」
「いえ、そう言う訳じゃ……。テレビなんかで見たような……」
「テレビ……」
二人がテレビの方を見ると、ドラマが放送されていた。
「おお、噂をすれば」
ドラマでは、目の前の女性が別人を演じ切っていた。
「確か、名前は……」
「シズクです。羽花 雫」
「前にも見た事あります。凄く有名な人ですよ。
そんな人が何でこんな所に一人で……」
「まあ、座って座って」
相手が女優だと分かっても、特に気にならないような素振りで雫を椅子に座らせた。
本当にこの男は反応が薄い。
ある意味、平等だが。
「えと、その、ここって何でもしてくれるって、本当?」
「まあ、出来る範囲でなら」
「依頼を聞かせてくれますか?」
問われた雫は表情がやや曇った。
「えっと……。その……」
「何か、言いにくい事でも?」
「いえ、その……。相談したいのは、この事なんです」
雫は紙切れを一枚差し出した。
「また紙切れか……」
差し出されたそれを手に取り、そこに書かれていた文字を読んだ。
汚い文字だった。筆跡で特定されない為だろう。
「えーと?
『オマエ』
……? 何だこりゃ?」
「あ、裏に名前が書いてますよ。
えーと、『S.Kより』って」
「それだけじゃないんです。それが部屋にあったのが一週間前で、
それから何枚か……」
雫は何枚かの紙切れを取り出した。
「えー……。送られた順でいいな?
『ノガレル』『フカノウ』『ゼッタイ』『オレノ』『モノ』『イタダキマス』
……全部カタカナだな」
「気持ち悪いですね」
「きっと、ストーカーだって、マネージャーさんが……」
「そうか。警察に行け」
「そ、そんな……」
「いえ、でもこういうのは、警察に届けた方が良いですよ」
「それとも何か? 警察に届けられない理由でも?」
「今の警察なんてアテになりません。あなた達だって知ってるでしょう?
彼等が動くとしたら、私が殺されてからのはずですよ!」
「えらく信用してねェんだな。昔に何かあった、とか?」
「………」
雫は前髪をかき上げ、二人に額を晒した。
「これは……」
「火傷の痕……か?」
「親の虐待です。煙草の火を押し付けられたり……。
暴力は毎日受けていました。
それで……警察が来たのは何時だと思いますか?」
「……何時……なんですか?」
「ある日、私は警察に訴えかけました。
『このままでは殺される』と。
助けられたのはそれから一月も経ってからでした。
家の外に放り出されて倒れていた私を付近の住民の方が見つけて、
そうしてようやく家に警察が来たんです。
それから暫くの間は入院していました」
「それから警察が信用ならなくなった、と?」
「ええ」
「そう言う事、か。仕方ねェな」
「それじゃあ……!」
「俺達も着いて行くから、警察に行け」
「な……! 何でそんな事……!」
「警察の信用を回復させるためだよ。
いちいちこんな事で動かされるのは勘弁だから、な」
有無を言わせず、黒人は雫を警察へ連れて行った。
「彼」の拳が黒人を捉える。
両手でそれを受け止めるが、黒人は何の抵抗もなくドアを突き破り、外に吹き飛んだ。
「な、何で……! あんなの簡単に避けられるはずなのに……」
杏が駆け寄ると、黒人は即座に身を起こし、杏の背後に回った。
背後に風を感じ、振り返った。
黒人が「彼」の攻撃を止めていた。
と言うよりは、完全に威力を殺していた。
避けずに、受け止めるという行為はこの男にとっては珍しい。
普段ならば紙一重でかわし、高速でカウンターを叩き込む。
状況によっては相手に手出しさせずに捻じ伏せることもあるが。
「防御」を必要としないこの男が一切の攻撃をせずに、守りに徹している。
それが何を意味するのか。
杏が理解したのは、全てが終わる時だった。
「ほい、到着」
黒人はさっさと中に入って行ってしまった。
「何でわざわざこんな所まで……」
警察は警察でも、ただの交番どころではなく、警視庁だった。
一応、サングラスに帽子という程度のカモフラージュはしておいた。
しかし、こんな所に入るのはいくらなんでも気が引ける。
不安そうに杏の方を見た。サングラスをしていたので表情が読み取れたのかは分からない。
しかし、杏は自信有りげに一言言った。
「大丈夫、任せてください」
その根拠が、雫には全く理解できなかった。
「お、来た来た」
黒人は入り口から入って来た一人の男に声を掛けた。
「……! 君は……!」
「久しぶりだね、お巡りさん。今は警部かな?」
「はは、お陰様でな」
「約束は守ってくれてるみたいで良かったよ」
いかにもな格好をした警部を相手に親しげに会話をしているのを見て、
雫はますます混乱した。
「あ、あれってどういう事? 知り合いか何か?」
「以前、家に依頼人として来てくれた方です」
「依頼人!?」
思わず叫んでしまいそうになり、慌てて口を塞いだ。
「ど、どーいう事!?」
「言った通りです。以前、大変な事件を解決するために」
「そ、そうなんだ……」
暫くすると、警官が黒人と一緒に歩いて来た。
「この人か?」
「あ、はい」
雫は軽く礼をした。
「ん? この人……」
「続きは外でやろう」
慌てて黒人が話を遮り、そのまま外に出た。
「し、雫!? 羽花雫か!?」
「知ってんの?」
「知ってるも何も、有名人だ! ここ最近だって、テレビで見ない日は無いぐらいだぞ!
そんな人が依頼に来たのか!」
「まあまあ、落ち着いて。とりあえずさっき話した通り、ストーカーで困ってるんだって。
そこで、だ。今度はそっちに協力して貰いたいんだけど?」
「あ、ああ。それは構わんが、ストーカーだと分かっているんなら直接警察に来れば良かったんじゃないのか?」
「それが、警察が信用出来ないらしくて、家に来たらしいんです」
「だから、信用を取り戻す為にも、さ」
「う、うむ。何より、市民を守るのが仕事だからな。もとより断る気も無い」
「良かった。それじゃあ頼みたい事が幾つかあるんだ。あんたらにしか出来ない様な事もあるかもしれんし」
「頼みたい事?」
「ああ、そうだ、あんたは先に帰ってて。俺達の家で良い。分かるよな?」
「え、でも……」
「警部さん、護衛の人とか付けてあげれない?」
「分かった、掛け合ってみる」
警部は中に入って行った。
数分後、一人連れて戻って来た。
「とりあえず、コイツを付けておこう。期間は、今日だけで良いのか?」
「うん、続きは俺達で引き継ぐよ」
「わかった。では、無事に送り届けてやってくれ」
「了解しました」
礼をして、雫と共に黒人達の家に向かった。
「じゃ、話の続きだ。まず……」
「……分かった。まずは周囲の人間関係から犯人を絞り込んでみる。問題の紙切れの事も調べた方が良いか?」
「いや、それは俺が調べるよ。それより、もう一つ、頼んだよ」
「ああ。なんとか準備しておく」
「それと、常に近くに誰かいた方が良いよなァ……。杏ちゃん、頼めるか?」
「はい」
「では、一旦解散しよう。何か分かったら連絡する事。いいな?」
「あいよ」
黒人達は一度、家に戻り、紙切れの事を調べる事になった。
「あ、あのっ」
雫が杏に声を掛けた。
「なんでしょう?」
「私はこれからどうすればいいの?」
「今まで通りに生活していてください。襲われたりしても私達が雫さんを守ります」
「私より年下の子にそんな危ない真似させられないよ!」
雫は二人の過去などは何も知らないので、杏が年下に見えるのも無理はない。
「大丈夫だよ、普通の人間相手なら」
「そんなの簡単に信じられる訳無いじゃない」
少しむくれたように雫が言う。
「あはは、そうですね」
「でも本当の事だしな。そうでもなけりゃこの子をあんたの護衛に付けねーし」
「さて、この紙切れだ。繋げて読んでみると……
『おまえ、のがれる、ふかのう、おれの、もの、いただきます』だな」
「この最後の『イタダキマス』って、どう言う事なんでしょう」
「さーな。まさか食っちまう訳でもあるめーし」
「……もしかして、無理矢理連れ去っちゃうつもりなんじゃないですか?」
「うーん、そういう考え方もあるけどなー。どーにも引っ掛かる。
ま、ひとまずそれは置いとこう。問題は、何時これが送られたか、だ。
教えてくれんか」
「大抵、朝起きると枕元に置いてあって……」
「え……? 郵便とかで送られて来たとかじゃないんですか?」
「だから、凄く怖くて……」
「そーゆーのは先に言って欲しいもんだ。つまり、あんたの家まで知られてるって事か。
こりゃ厄介だねー、どうも」
「もしかしたら、今も何処かから見られてるのかもしれませんよ……」
暫くの間、沈黙が訪れた。
「いや、大丈夫。今はそんな気配は無い。
それより、これからの事だ。あんたの仕事の予定は?」
「あ、明後日から番組の収録で……」
「何処でなんですか?」
雫はその場所を口にした。
「そこの旅館で、いくつかのシーンを撮るんです。あと、協力してくれる人達もいて」
「協力って、エキストラみたいのか?」
「ええ、確か色んな所を回ってサーカスみたいなのをしてるって言ってました」
「へェ……。そういう役回りなんだ」
「結構人数がいる上に演技力まで必要だったから、その人達なら適任って事で採用したみたいなの」
「はは、確かに丁度いいかもしれんな。なあ、杏ちゃん」
「そうですね。それにしても、こんな偶然ってあるんですね」
「な、何が?」
「すぐに分かりますよ」
「彼」の攻撃を全て避ける事無く、完全に威力を殺しながら逃げている。
目的地は一つ、出口だ。
だが、わざわざ「彼」の攻撃をいなしながら進むため、なかなか思うように行かない。
杏が攻撃しようとするが、黒人がそれを止める。
黒人には分かっていた。
「彼」を攻撃する事は出来ないという事を。
二日後、黒人はロケ地であるその旅館へ向かった。
あれから、雫を家に帰らせた。
護衛の為に杏も一緒に着いて行かせたのだった。
二人は恐らくもう着いているだろうか。
そう思って歩いていると、道中で杏とばったりと出会った。
何故一人なのかと聞くと、雫は先に向かったらしい。
と言うか、杏が寝坊したらしかった。
珍しい事だ。
この二日間は何も起きなかったらしい。
そうして旅館に着いたその時に、警部から連絡が入った。
周囲の関係を洗いざらい調べ回った結果、どうにも怪しい者がいるらしい。
名は、城野 健。紙切れに書いてあった名前「S.K」に当てはまる。
彼は雫の熱狂的なファンであり、収録などは必ず見に来たと言う。
一度、彼女の家に押しかけ、注意を受けた事もあるという。
警部はこの者の周辺から聞き込みを始めたらしい。
もう一つ、情報が入った。
準備は完成したらしい。
黒人は旅館で決行すると言っておいた。
旅館に入ると、中にはスタッフ等が各々思い思いの時間を過ごしていた。
其処には雫もいた。
と、奥から元気な子どもが出てきて、黒人達を見て驚いたように叫んだ。
「あ、正義の味方だ!」
それを聞き、中から女将も出迎えた。
「まあまあお二人とも! 久しぶりですね
いらっしゃい……いえ、おかえりなさい」
そう言って女将は微笑んだ。
「久しぶりッす。調子は良いみたいっすね」
「ええ。お陰様でね。あれから、お客さんもそれなりに入ってくれて」
「本当に良かったですね。それに、ドラマの舞台に選ばれるなんて凄いですよ」
「あらあら、ありがとう」
二人を見つけた雫が駆け寄ってきた。
女将と仲良く話しているのに割って入るのは申し訳ないので、話が終わるのを待った。
「あなた達、ここに来た事あったの?」
「色々あって、な」
「大事な『家族』です」
「へぇ……」
暫くして、エキストラの人々が到着した。
「やー、すみません! 遅くなってしまって!」
「いやいや、大丈夫、まだ始まるまで時間があるからね」
「いやー、すみませんね。じゃ、用意してきます」
「今日は宜しくお願いしますよ」
「任せといてくださいよ!」
そうして準備に取り掛かり始めた。
準備をしている彼に、声が掛けられた。
「俊さん!」
「えっ?」
振り返った彼の目に映ったのは、懐かしい二人の姿だった。
「君達は!」
「久しぶり」
「うわーっ! 久しぶりだなあ! 皆ーっ!」
「なんだなんだ?」
俊の歓声にサーカスの人々が集まってきた。
「あっ! 杏ちゃんじゃないかい!?」
「黒人君もいるぞ!」
「何でこんな所に?」
「や、ちょっと仕事で、ね」
「君達もこのドラマのエキストラをするのか?」
「いえ、そうでは無いんです」
「じゃあ、また何か危ない事かい?」
「まあ、そうかな」
「あんたら、若いんだからそんな事ばかりしてると、今に死んじまうよ」
「大丈夫だよ。死ぬ程危険な訳じゃない」
その言葉に、杏は心の中で呟いた。
(私達にとっては、ですけどね)
「ところで杏ちゃん!」
杏を引き寄せ、隅の方に持って行ったのは、胡蝶だった。
「どう? 明無君と上手くやってる?」
例によって、杏はその話題では赤くなる。
「は、はぁ……お陰様で……」
「また話聞かせてよ〜」
「ま、またいずれ……」
本番寸前になって、警部も旅館に着いた。
警察である事がばれないように私服になっている。
大方の準備は整ったらしい。
「そろそろ始めまーす! 配置に着いてくださーい!」
その声が響き渡り、撮影が始まった。
「本番中は静かにお願いしまーす」
一般の人々が撮影を見ようと押しかけている。
この中にも城野 健はいるのだろうか。
いなければ、作戦は成功しない。
だが、今回もどうやら来ているようだ。
事前に黒人が「図」の能力で調べていた。
後は、事が起こるのを待つのみ。
本番が始まり、暫くの間サーカス団と脇役のやり取りがあった後、
いよいよ雫が登場した。
役柄は、旅館の若女将らしい。
老舗の旅館を守るために奮闘すると言う話らしい。
そのシーンが一番の盛り上がりを見せるその時、事が起こった。
突然、観客の一人が飛び出し、雫に向かって襲い掛かろうとした。男だった。
その手が雫を捉えようとしたその瞬間、ぶつかる様にスタッフの一人がその男を羽交い絞めにした。
「取り押さえろ!」
警部の一声により、スタッフである筈の人が二、三人その男に飛び掛った。
やがて、観念するように暴れるのを止めた男は、手錠を掛けられ、連れられて行った。
雫は安堵し、他のスタッフ一同も安心したように息を吐いた。
スタッフの中に不自然でないような警官を数名紛れ込ませ、
何かあったら即座に動けるように待機させておいたのだった。
そして、男が雫に襲い掛かり、警官達がそれを取り押さえたと言う訳だ。
警官の一人がお約束の敬礼をしてから、到着したパトカーに乗り込んだ。
観衆の歓声の中、パトカーは去って行った。
結局、その日の撮影は無事に終えられ、警部も帰る事になった。
去り際に、黒人の耳元で一言、何かを囁いた。
その日の夜、それぞれ家に帰り、休む事になった。
杏の護衛も終了と言う事で、黒人と一緒に帰って行った。
雫も家に戻り、一息ついた。
撮影でクタクタになり、そのままベッドに倒れこんでしまった。
そして、電気を消し、眠りについた。
満月のため、電気を消してもなお、静かな明るさがあった。
車の通る音が間隔を開けて聞こえてくる。
それと同じように、靴の音も何度か聞こえた。
そして、雫の意識は深い眠りへと落ちて行った。
「考えの甘い奴等で助かったよ……」
低い声で言い、ベッドの側に佇む影があった。
「たった一人とは限らないんだぜェ〜、警察の諸君」
くくく、と小さく笑い声を発した。
「しかし、撮影の時の男には感謝しないとなぁ〜。お陰で動き易くなった」
笑いの止まらないその男は、余裕からか、なかなか行動を起こさない。
やがて笑いが収まり、行動を起こそうとした。
「動かないでください」
後頭部に鉄の冷たさを感じ、両手を上げる。
「……拳銃か」
「ええ。素手でも十分ですけど、この方が分かり易いと思いましたから」
背後で銃を構えていたのは、杏だった。
「どういうことだい? お嬢ちゃん。君は途中で別れたんじゃなかったかな?」
「あなたが罠に掛かっただけですよ」
「罠だって?」
「知りたいですか?」
黒人は作戦を警部に話し始めた。
「話の続きだ。まず、犯人の特定だ。ある程度絞り込めたらそいつの監視に当たってくれ。
そんで次。警察の諸君には一芝居打ってもらう」
「芝居だと?」
「そんな難しいことじゃない。やってもらうのは防犯訓練みたいなもんさ」
「どういうことだ?」
「撮影のスタッフとして数人紛れ込んでおく必要があるけどな。
観客席から一人が雫さんに襲い掛かる。それをあんたらが取り押さえる。それだけだ」
「そうか、その襲い掛かるのも演技、と言う訳だな」
「そういう事。当然全員制服なんて着て来ちゃ駄目だ。パトカーなんて言語道断」
「ああ、それは分かってるが、何でわざわざそんな真似を?」
「それはな……」
「一人暴漢が捕まれば、それだけで被害者や警察は安心しますよね。
でも、もう一人犯人がいて、それに誰も気付いてなかったら?
……当然もう一人はその隙を突ける分大胆になりますよね。
あなたみたいに」
「……成程、そういう訳か。心理的な隙を無理矢理作って俺を嵌めたのか」
「ええ。後は、雫さんに気付かれないように尾行すればあなたと出会うのは簡単です」
「ほ〜っ、考えたのは君なのかい?」
「いいえ」
「ならば、君と一緒にいた、あの男か?」
「えっ……」
何故、知っている。
そう訊こうとした杏の言葉を遮り、男が話し始めた。
「俺を罠に嵌めたのは褒めてやるよ。ただ、詰めが甘かったなぁ〜」
「こ、この状況でですか?」
杏が銃を少し強めに押し付ける。
「いや、いいよ。ゆっくり振り返ればいいんだよね」
そして、男は言葉通りゆっくりと振り返った。
その頃、黒人は紙切れの謎を解きながら、警部の連絡を待っていた。
城野 健の監視は継続していたのだった。
「……『イタダキマス』……どう考えても変だよなー」
頭を抱えている黒人の元に、電話が掛かってきた。
「黒人君か?」
「犯人が動いた?」
「いや、それが……」
電話を切り、黒人はさらに頭を抱える事になった。
「動いてねェ……か」
確かにこれで犯人が行動を起こすかどうかは賭けのような所もあった。
しかし、少し頭の良い奴が相手ならば引っ掛かる可能性は大きくなる。
頭の悪い人間ならば、何も考えずにすぐに襲ってくる。
「……まさか……」
黒人はある可能性を考え、すぐに取り払った。
しかし、否定できない。
虐待……不信……
「確認するしかないか」
黒人は紙切れを摘み上げた。
「つっても、これで犯人を特定するってのはな……」
暫く考え込んだ後、黒人は顔を上げた。
「しょーがねェ、頭で分からなけりゃァ能力を使えば良いじゃない、てか」
大きく伸びをして、黒人は能力を発現させた。
「さ〜て、どれがいいか……。
……よっしゃ、決めた」
そうして浮かび上がった文字は、「映」「変」の二文字だった。
「一緒に二文字以上使うのも久しぶりだな〜」
「あれっ? 杏ちゃん?」
振り向いた人物は、雫だった。
「う、嘘……じゃあ、さっきまで話してたのは……」
さっきの声は、確かに男の声だった。
しかし、目の前にいるのは、雫なのだ。
「うわっ、それ、拳銃? 本物!?」
慌てて杏はそれを隠す。
「あ、いえ……」
「それにしても、何でまたうちに来たの?」
「そ、その……」
さっきまでのやり取りは一体何だったのか。
「おかしいなぁ……」
杏は辺りをきょろきょろと見回すが、怪しいものは見当たらない。
この違和感はなんなのか。
まるで何か、とんでもない能力が?
そんな考えもよぎった。
確かにあの男からはただならぬ邪念を感じた。
何が起こるか分からない。
雫を守るように背に回し、神経を集中させた。
そのただならぬ気配は、背後から感じられた。
「あっ!」
杏の首を絞め、勝ち誇ったような笑い声と共にあの男の声がした。
「だから言ったんだ! 詰めが甘いってなァ〜!」
「このメッセージが書かれた当時を、『映』写、及び、人物への『変』身」
黒人の姿が次第に違う人物に変化していく。
そして、メッセージを書いた人物への変身が、完了した。
「……馬鹿な……」
浮かび上がった姿は。
シズク
「……多重人格か!? だが、有り得ねェ! 女が……女が男に変わっちまうなんて!」
「この人……まさか……」
呆気にとられる杏を逃がすまいと入り口に佇み、
犯人の姿が、月明かりに照らされ、露になった。
外の光が見えてきた。
黒人が乱暴にドアを蹴り壊し、転がるように外に飛び出た。
「いつまで逃げるつもりなんだァ〜?」
彼も後を追って外に出てくる。
彼が外に出て見つけたのは、杏一人だけだった。
「あれ? 男の子は何処だァ〜?」
「………」
「まあいいや。まずは君から……」
杏に襲い掛かろうとした彼の背後に下りてきた影。
「ここだよ」
とん、と背中の一点に指を置いた。
それだけの筈なのだが、彼の身体から力が抜け、地面に伏した。
「な!?」
「弱っ」
黒人は外に出た瞬間に高く飛び、屋根に潜んでいたのだった。
そして、そのまま頭を鷲掴みにして、彼を動く事が出来ないようにした。
「杏ちゃん、周りに人はいるか?」
「いえ、誰もいません。大丈夫です」
「そっか。じゃ、そろそろ決着といこーか」
「ぐゥッ!」
「お前には死んでもらうよ」
冷たく言い放つ黒人に顔を向ける事も出来ない状況で、尚も彼は笑った。
「くくく、何度も言うが、詰めが甘いんだよ!
君達が気付いているように、俺は彼女自身だ!
俺を殺せば彼女も死ぬんだぞ!」
杏はその時初めて黒人が彼を攻撃しなかった理由が分かった。
さらに、彼の攻撃を全て威力を殺す事で凌いでいたのも、傷つけないため。
何処か殴れば、彼には平気でも、雫には、耐えられない。
だから攻撃を全ていなしていたのだ。
ならばどうやって彼を殺すというのだろう。
多重人格は心の分裂。
幼い頃の身体的、肉体的な傷で裂けた心が創り出した第二の存在。
これを殺すのは雫自身にしか不可能だ。
外部からの攻撃では彼を弱らせる事は出来ても、殺すことは出来ない。
それに、彼女自身にも傷を負わせる事になる。
ならば、どうやって―――
「分かってるよ、それぐらい。
だからお前だけを、殺す」
「くく、ははは、そんな神がかった事など、出来るはずが……!」
「 だ
ま
れ」
背後に、殺気を感じた。
並の殺気ならば――そんなものも感じた事は無いが――空気が張り詰めるような感覚だろう。
しかし、この殺気は―――。
動けない。
表情一つ動かす事が出来ない。
彼の顔は、笑い顔のまま、それでいて冷や汗をかきながら、固まっていた。
「想成百夜『夢』の調」
その声と共に、彼の意識が遠のいた。
「……う……ここは……」
と、身体を起こそうとした。
しかし、起き上がれなかった。
身体を動かす事が出来ない。
何故か。
理由は、目の前に立つ男。
底知れぬ「闇」を従えるその男。
「分かるか? 今、お前が何処にいるのか」
「………」
「お前の……お前達の世界だ」
(俺達の世界!? どういう事だ!?)
そう心の中で必死に叫んだ。
「お前達の、精神だ」
足で顔を無理矢理持ち上げられ、黒人の姿が全て見えた。
その瞬間、彼は自分の目を疑った。
黒人はある人を抱きかかえていた。
シズク。
彼女は眠っているように見える。
(何なんだ!? どうなってる!?)
「理解できたか? これから、お前だけを。
お前の精神だけを完全に破壊し、消滅させる」
それがただのハッタリなどでは無い事は、黒人から発せられる殺気から容易に想像できた。
(ひ……やめろ! 俺に近付くな!)
「覚悟は出来たか? なあに、安心しろ。
地獄に手荷物も土産もいらねェからな。
堂々と逝ってこい。帰る事も無いけどな」
黒人の掌が、彼の視界を遮った。
彼の絶叫は、誰にも聞こえる事は無かった。
「……あ、あれ?」
雫が目を覚ますと、何故か頭が締め付けられたように痛かった。
それなのに、何かから解放されたような清々しさがあった。
「あの紙切れの『イタダキマス』って、完全に彼女と入れ替わるっていう事だったんですかね」
「んー、そうかもな」
「『S.K』はただ混乱させる為だったんでしょうね。
でもあんなの初めて見ました。女の人が男の人になっちゃうなんて」
「……うーん……」
黒人は何か考え込んでいる。
「どうしたんですか?」
「やっぱりどう考えても有り得ねェんだよ」
「でも、実際に見たじゃないですか。珍しいですね、そんなに頑なに否定するなんて」
「多重人格で体格や性格が変わるのは本当にあるらしいけどな。
性別が変わるなんて、身体の構造上、絶対に不可能なはずだろ?」
「……それもそうですね。でも、じゃあ、私達が見たのは……」
黒人がふと顔を上げた。何か思い付いたようだ。
「まさか……」
杏も同じ結論に達したようだ。
「……フィスか……?」
「彼女の能力で? でも、あれは……」
「ああ。確かに『与え』られた人間はとんでもない苦痛が伴う。
彼女にあれが耐えられるかどうかは微妙な所だよ。
でも、仮に『与え』られたのが彼女じゃなかったら?」
「え……それって」
「出てきた男が、元々は彼女の中には存在してなかったんなら、だ。
もしかしたら『与え』られたのはあの男で、身に付いた能力が仮に、
『他人の精神に入り込み、意識、肉体を共有できる』としたら?」
「そっか、無理矢理自分が第二の人格になって……!」
「うん、性別まで変わる多重人格の出来上がりだ。
ったく、まだ動き回ってやがんのか、あいつは」
「このままだと、これからも能力を持った人達が増えていく事になりますよ」
「だよなァ。……しゃーねぇ、止めに行くか」
「行くって、まさか」
「向こうの世界に行ってくる」
「じゃ、じゃあ私も……」
「いや、いいよ。ちょっと行ってくるだけだし、すぐ帰るさ。
それに、向こうへの行き方を知ってるのも俺だけだし」
「そ、そうですか?」
「大丈夫だって、一日か二日で帰ってくるさ」
「気を付けてくださいね……」
「はは、別に向こうはそんな危ないトコじゃないから、何もねーよ」
「そうなんですか?」
「此処と大して変わらんよ。」
「あはっ、なんだか安心しました。……行ってらっしゃい」
「ん、行ってくる」
黒人は初めて彼女に―――。
フィスキーナに出会った場所へと向かった。
第二十話
END
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