第十九話
G&F's M
麗が帰ってから一週間が経った。
「ふあぁ〜」
目を覚まし、意識を現実に戻すと、杏の耳に音が入り込んできた。
その音は、様々な段階が繋がり、連続した流れを生み出している。
音楽。
杏はその音に懐かしさを感じながら部屋を出た。
「ん、起きたか」
演奏を止め、黒人が振り返った。
いつになく楽しそうな顔をしている。
理由は杏にはすぐに分かった。
黒人はそれをまるで我が子のようにそっと置くと、いそいそと朝食の用意を始めた。
「久しぶりですね」
「そうだな。久しぶりだ」
食事を済ませた二人は部屋のテーブルを片付け、用意を始めた。
事の発端は帰り際に麗が発した言葉だった。
彼女は、二人の顔を見てこう言った。
「また、皆で一緒に演奏会でもしようよ」
「その時にナマッててブチ壊しにしちゃ駄目だしな」
左肩にストラップを掛けながら黒人が言う。
「随分やってませんでしたもんね」
指をほぐしながら杏が言う。
「それでも身体は覚えてるもんだな」
チューニングをしながら黒人が言う。
「楽しい事は忘れられませんよ」
同じく音が正しく出せるか確認しながら杏が言う。
そして、どちらからタイミングを計るともなく、演奏が開始された。
黒人は緩やかなストロークを次第に速く、強く。
杏はその吐息が金属管を通り金管楽器特有の音色を紡ぐ。
エフェクターからなるディレイでフルートの音を迎え入れる。
ギターのコード・ストロークにフルートの流れるメロディが入り込む様は、
言うなれば壮大な背景に人物が現れ、物語が始まったかの如し。
背景が薄くなれば人物がその存在を誇示し、踊り狂う。
人物が一定の動きをしていれば背景が大きく変動する。
時には、背景が主人公となり、人物が背景にもなり得る。
そして、たった二つの楽器が、何百という音の流れを創り出す。
「ふ〜」
アンプの電源を切り、黒人が一息つく。
「どうでした?」
「なかなか。やっぱり楽しいな」
ギターを肩から下ろすのとほぼ同時にチャイムが鳴った。
「あのーっ! すいませーん!」
どうやらずっといたらしい。
杏が慌てて応対した。
入ってきたのは普通の男性だった。
優しそうな顔をしている。
常に笑みを浮かべていて、好感が持てる人物だった。
「外から聞いてたんですけど、何か音楽でも?」
「あ、はい。ほとんど独学ですけど」
「そうですか。とても楽しそうに聞こえました」
「あはは、そうですか?」
「なんとなく、そう思いました。
あ、そうそう、お願いしたい事が……」
「何か困り事でも?」
「ええ、実は……」
「保育園、ね」
「よっぽど人手が足りないんですね」
「ええ、人員の募集もしてはみたものの、一人も来ずじまいでして」
「何処も大変なんだねぇ」
「うちは今、ほとんど僕一人でやってるみたいなものでして……」
「一人で!?」
「はい。子どもの数もそれほど多い訳ではないんですが、やはり一人で、というのは……」
「それは保育園って言えるのかどうかすら微妙な気が……」
「いえいえ、そこはれっきとした保育園です。親御さんも安心して預けて頂けるように頑張ってますし」
「まあそれは良しとしよう。でもよく一人でやってられるな」
「はは、親御さんにも言われましたよ。でも、やり甲斐はありますよ。
それに、子どもの笑顔を見れば辛いとも思いませんし」
「へー、凄いな、あんた」
「そうですか?」
「ただ好きなだけじゃそう長くは続かんよ。だから凄いんだ」
「そんな事を言われたのは初めてですよ。ありがとうございます。
でも、お金の方なんですが……」
「一人じゃ苦しそうだしな。別に構いはしないけど?」
「すみません。ちゃんと正規の額は払いますので」
「でもこの子はともかく、俺が行ったら子どもも怖がらんか?」
「大丈夫ですよ。うちの子は人懐っこいですから」
「……まあ、行くだけ行ってみるよ」
「本当ですか! ありがとうございます! それじゃあ早速……」
「これから行くのか」
「はい。早くしないと子ども達が来てしまいますから。
そうそう、僕は真田 孝と言います。よろしく」
「ん、よろしく。行こうか、杏ちゃん」
「はいっ」
「あ、そうだ、二人とも、先刻使ってた楽器を持ってきてくれませんか?」
「え……いいけど……?」
用意を済ませた三人は、保育園がある場所へ向かった。
保育園は、街外れに建っていた。
やはりそれほど大きくなく、人もいないようだった。
「まだ誰も来てませんね」
「あっ、来たみたいですよ」
小さな子どもをつれた人が中に入ってきた。
「加藤さん、おはようございます」
「先生、お願いしますね」
その後も次第に子どもが集まり、最終的には十人程になった。
よく見れば皆、帽子を被り、リュックを背負っている。
「さて、俺らに手伝いを頼んだからには何か理由があるはずだが?」
「あ、そ、そうでした。実は今日、遠足の予定だったんです」
「遠足、ですか?」
「はい。普段なら親御さんに手伝ってもらったりしていたんですが、
今日はどの方も都合が空いていないらしくて」
「ふむ。じゃあとりあえず子どもの安全に注意してればいいのかな?」
「はい、あと出来れば食事の準備も手伝って頂ければ……」
「それぐらいなら問題ないですよ」
「よかった! 子ども達の準備が済み次第出発しますんで、よろしくお願いしますね」
「はーい」
黒人と杏の返事が重なった。
保育園の遠足は、近所の山登りだった。
妥当な所だろう。
しかし、近所と言えども距離はそれなりにある。
それでも子ども達は元気いっぱいで道を歩く。
「道路に出ないように気を付けてくださいね」
「は〜い!」
「せんせー! まだつかないのー?」
「まだまだこれからだよ。ほら、山が見えてきた!」
「きょうそうだ! きょうそうだ!」
「あっ、こら! あんまり走ると危ないぞ!」
子ども達も、孝の言った通りすぐに黒人達に懐いてしまった。
一人を除いて。
「ヒロ君、早くおいで」
孝が声を掛けたその子は、どこか淋しそうな顔をして俯いている。
それでも孝が手を引き、連れて行った。
「あの子、どうしてあんなに淋しそうなんですか?」
「あの子の親は遠足の時にはよく手伝いに来てくれていたんですよ。
今日は仕事の予定で来れなかったから、きっとそれで淋しいんだと思います」
「そっか。じゃあ元気付けてあげなきゃ!」
そう言って杏がヒロという少年の元へ歩み寄った。
「元気出してください。せっかくの遠足なんだから」
杏が優しく言うと、ヒロは少しだけ顔を上げ、応えた。
「だって……おかあさんがいない……」
今にも泣き出しそうな顔をしている。
「いつも、えんそくのときはついてきてくれたのに……」
「大丈夫、皆がいるじゃないですか」
「でも……」
「皆と遊ぶのも楽しいんでしょう?」
「………」
「ひろくーん!」
遠くから子ども達がヒロを呼ぶ。
「ほらほらー! まつぼっくりー!」
形の歪なまつぼっくりを両手に持ち、ヒロの下へと駆け寄る。
そして杏もヒロの方を見て言った。
「それに、一つ楽しみが減ったからって、
他の楽しみまで捨てちゃうなんて、勿体無いでしょう?」
杏は穏やかに微笑んでいた。
日光を背にしてもなお、その姿は美しいものだった。
「今日は思いっきり、お友達や私達と遊びましょうよ!」
「……うん……」
ヒロの顔に笑顔が少し戻った。
「さあ、もうすぐ頂上だよ! 皆、頑張ろう!」
「はーい!」
子ども達は、疲れを知らないかのように元気良く返事をする。
「元気なお子さん達だこと」
「子ども達っていうのは疲れ切って眠るまで元気いっぱいですからね」
「そういうもんかね」
「ええ。あ、頂上が見えてきましたよ!」
「ぼくがいちばんだー!」
「まけないぞー!」
子ども達は一斉に走り出した。
黒人達もそれに合わせて走り出した。
「それじゃあこれからお昼ご飯を作りまーす!」
「わーい!」
「私達も手伝うんですよね」
「ああ、そうだったな。……何すりゃいい?」
「そうですね。黒人さんは、薪を集めて窯を作ってくれますか?」
「おお、結構最初っからやるんだ」
「杏さんは、野菜などの調理を頼みます」
「あんたは?」
「スパイス作りです」
「うわぁ、ホントに何から何まで手作りなんだ」
「食器は市販の物ですよ」
「あ、そこまではしないんだ」
「衛生的な問題もありますしね」
「結構落ちてないもんだ」
小さな木の枝を拾いながら黒人が呟いた。
やがて一本の木の前で立ち止まった。
「こうすりゃいいんじゃねーか」
と、手刀で木をあっと言う間に綺麗な薪に仕立て上げた。
「……こういうのが自然破壊に繋がるのか?」
黒人が窯を造り上げた時には、一通りの準備が整っていた。
出来たカレーは、格別な味がした。
「さあ、腹ごしらえも済んだところで、歌を歌いましょー!」
「はーい!」
「歌ぁ?」
「あ、言ってませんでしたね。歌を歌うのは遠足の時のお約束みたいな物でして。
お二人に楽器を持ってきていただいたのもその為です」
「あ、そーゆーこと……」
「あれ? でもそれじゃあくろさんのギターはアンプに繋げないんじゃ……」
「まあ……生音でもいいんじゃねーの?」
初め、子ども達全員が二人の紡ぐ音楽に聞き惚れてしまい、歌うのを忘れてしまった。
もう一度、初めからやり直した。
「森の熊さん」で相手を感動させられるとは、筆者自身も羨ましい。
「はー、楽しかった!」
「それじゃあ日も暮れてきたから、帰りましょー!」
「はーい!」
帰り道でも、子ども達の頼みで、黒人と杏は演奏を続けた。
山の麓まで辿り着いた頃には、子ども達は皆、疲れて眠ってしまっていた。
大人達三人で、子ども達を抱えて降りてきたのだった。
「まーったく、気持ち良さそうに眠ってること」
「ふふ、本当に」
「遠足が大成功だった証ですね」
やがて、迎えに来た親達に引き取られ、子ども達は皆、帰って行った。
それを全て見送り、黒人達も帰り支度を始めた。
「今日は本当にありがとうございました。また遊びに来てくださいね」
「はい、また何かあったら御連絡ください。力になりますよ」
「今度は竹とんぼでも作ってやるさ」
「はは、よろしくお願いします」
「じゃ、帰るか、杏ちゃん」
「はいっ」
「懐かしいなぁ。子どもの頃の事なんて」
「ずぅっと昔ですもんね」
「ま、今は今で楽しけりゃいいか」
「あはは」
月明かりの照らす中、二人は手をつないでゆっくりと歩いて家に帰った。
第十九話
END
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