プロローグ


人はどうしようもない窮地に陥った時、神にすがる。
どうしようもないからだ。
自分の力では解決のしようが無い時、
人は、人を超えた力にすがる。

神は助けてくれるのか?
答える術など全く無い。
だが、私から言おう。
ただ神に祈るだけでは駄目なのだ。
自分が動かなければ何もできはしない。
祈るということはあくまでも儀式に過ぎない。
それだけでいいというならば私からは何も言うまい。
私はただその様を傍観し続けるだけだ。
助けを求めるのにも相手を選ぶ必要がある。
存在の不確かなものにすがっても救いの手など差し伸べられはしない。
溺れる者は藁をも掴むと言うそうじゃないか。
神に救いを求めるという事は、藁を掴むのとそう変わらないだろう。
実際に助かる可能性は藁にしろ神にしろ等しく低い。
神は、存在していたとしても、人を救うためにあるのではない。
全ての存在を観ているだけである。


勿論ほんの気まぐれで何かすることもあるかもしれない。
だがそれは人の言葉で言う「奇跡」というものだ。
その奇跡は神にとっても奇跡なのだ。
それ以上でも以下でもない。

よく自然災害があると昔の人は「神の怒り」だと言って恐れたそうだ。
しかし、神はおそらく怒ってなどいない。
その時もただ観ているだけだ。
自然災害ははじめに「設定」されていたのだろう。
そう、神の設定。
それはおそらくこの世のどんな書物よりも長く、
星の数よりも多く、
素粒子よりも細かく作られた設定なのだ。
もしかしたら全く逆かもしれない。
神は全ての生に「基本」しか与えていないのかもしれない。
そこから発展した結果、大災害となるのかもしれない。

そう、人間が戦争を起こしたように。


神は些細な事で怒りはしない。
そう、神にとっては人からすれば地球が無くなる事でさえも蟻よりも小さいものに見えるはずだ。
人は蟻が一匹死んでいたとして、何人がそれを気にかけるだろう。
神はおそらく気にかけないタイプだろう。
観るものが多すぎるからだ。
しかし、それは気にかけはしないが、確かに見えてはいる。
それこそ電子顕微鏡並に見えている。
だが、それにとらわれている暇も無いのだ。
……神には観るものが多すぎる。


最後にひとつだけ言っておこう。

神は創造主ではあるかもしれないが、救世主とは程遠い所にある。
人を救うべきは神ではない。
人を救うのは、人なのだ。
または、それに属する生物だ。
救いを求めるのならば、神ではなく人に求めなければ意味が無い。
祈るだけでは救われないのだ。





だから人間よ、
私にすがるのはやめてはくれないか?







―――――あなた達が神と呼ぶ者より







ある日、一枚の紙切れが道端に落ちていた。
おそらく文字が書いてあったのだろう。黒いインクの跡がついてある。
しかし、前の日に雨が降ったのがいけなかったのか、
その文字は水でにじんで読み取れなくなっていた。
それを拾った子どもがぐちゃぐちゃに丸めて友達にぶつけた。




プロローグ
END

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