番外編シリーズ4
邂逅(18)
〜夜明け〜
行くあては無い。クロの墓の側にもいたい。
しかし、杏の他人に頼ることができない性格が、それを許さない。
地獄の底から救い出され、傷を癒してもらい、
杏の自分勝手な旅にも文句一つ言わずに付いて来てくれた。
確かに、彼の側にいることは、ひどく心地が良い。
だからと言って、いつまでもそれに甘えていては、きっと青年の邪魔になる。
自分のせいで、彼の幸せの邪魔になってしまうかもしれない。
杏には、それが耐えられなかった。
「どうした?」
その声で、杏は現実へと引き戻された。
顔を上げると、青年が湯飲みを二つ、その両手に持って杏の目の前に立っていた。
青年は、飲めともあげるとも言わず、
椅子に座るのと同じぐらい自然に杏に湯飲みの一つを手渡す。
あまりにも自然に渡されたので、杏は断る暇もなく、なされるままにそれを受け取ってしまった。
「あ……えっと……」
上手く言葉に表せず、返答に困っていると、
それを見透かしたかのように、青年が遠回しに言った。
「もう体は大丈夫みたいだね。もう、特に不自由もないだろう」
その言葉に、杏の鼓動が激しくなる。やはり、青年も、杏の考えに薄々は気付いていたようだ。
「はい……あの、それで私、もう……」
「行く当ては」
青年が杏の言葉を遮る。杏が顔を上げると、青年のまっすぐに彼女を見る瞳が正面に一つあった。
もう一つは彼の無造作に伸びた髪の毛に遮られているが、そこからは確かに力を感じる。
その眼差しに杏はたじろいだが、それに悪意が無いことは分かっていた。
少しの沈黙の後、杏もまた青年の瞳を見据え、囁くように、それでもはっきりと答えた。
「ありません。でも、これ以上、あなたを頼ることは、できません」
それだけ言うと、杏は再び俯き、沈黙した。
湯飲みを持つ両手が、震えていた。
――面倒臭い。ああ、面倒臭い。大して強くもないのに、自分の考えを曲げやしない。
そんな手合いが一番厄介で、面倒臭い。
そもそも、誰が頼られて迷惑だなんて言ったよ。
少女が部屋に戻った後で、黒人は一人、そんなことを考えながら茶を啜った。
すっかりぬるくなっている。
そして、しばらくの間、壁に遮られて見えないクロの墓の方向を見ていたが、
やがて、呆けたような表情を微笑みに変えた。
それは、微笑みと言うには、少しばかり「悪っぽさ」が見えた。
「クロぉ……そういや、お前も『客』だったな」
語りかけるような独り言の間に、黒人の「悪っぽい」微笑みは、悪戯っぽい笑顔になっていた。
翌日、杏は準備を終え、青年の前に立っていた。
とはいえ、元々何も無い状態でこの家に来たのだ。杏は、本当に何も持ってはいなかった。
「ホンットに聞く耳持たねェな、キミは。ここに住んでても良いって、俺が言ってるのにさ」
頭を上げた杏は、微笑みを絶やさぬまま、その言葉に答える。
「あなたが良くても、私が駄目なんです」
しかし、青年は、納得がいかないとばかりに質問を畳みかける。
それは、やがて質問だけではなくなっていった。
「金は」
「持ってません」
「飯は」
「ありません」
「そんな状態で、生きていけるのか」
「分かりません」
「思い留まる気は」
「ありません」
「何故」
「これ以上お世話になんて、なれません」
「頑固者」
「分かってます」
短いやり取りの後、杏は深々と頭を下げた。泣き虫な彼女は、涙を浮かべはしなかった。
その姿を見て、青年は諦めたように溜息を吐き、頭を掻く。
それが、了承のサインだと杏は受け取った。
そして、静かに家を出ようとしたその時、杏の解釈は間違っていたことを思い知った。
「仕方ないか」と、微かに聞こえる程度に呟いたかと思うと、
青年は、ふざけた口調で杏に声を掛けた。
「なあ、俺って『正義の味方』って風に見えるか? 見えないよなぁ」
不意な、しかも訳の分からない問い掛けに、玄関に向かって進めていた杏の足が止まる。
青年は、あらぬ方向を見据えたまま、リビングに佇んでいる。
その青年が動き出すと同時に、杏の止まった思考が再び回転を始めた。
「でも……少なくとも、私を助けてくれたのは、事実です」
杏が言い終わる頃には、二人は再び、玄関の前で向かい合っていた。
段差のために、青年が杏を見下ろす形になっている。
「そう、それだ。俺は無償の愛を振り撒く正義の味方じゃない。けど、キミを助けた。何故だ?」
いやに芝居がかった青年の台詞に、あるいは上から降ってくる形となった言葉に気圧されながらも、
笑顔を貼り付けたまま、杏は思ったままを口にする。
「あなたが言ったんじゃないですか。取引だ、って」
次の瞬間、杏の顔に息がかかる程の距離に、青年の顔が近付いていた。
口元には笑みが浮かんでいる。
杏は、心臓が、これまで青年と生活してきた今までで、一番高く跳ね上がったのを感じた。
「ああ、言った。キミを助けたのはキミとの取引だ。不本意なことに、タダ働き同然だったがな」
青年はそこで一旦言葉を区切り、未だ激しい鼓動の収まらない杏の顔から、ゆっくりと身を引く。
そして、決定的な一言を呟く。
「しかしな、だったら、『キミの居場所を探して救出に向かった』のは、何故だと思う?」
再び、杏の心臓が高鳴る。青年の笑みは、徐々に悪戯っぽいものになっていく。
「それは……」
「クロさ」
声のトーンを下げ、青年が杏の言葉を遮る。
「クロがそう願った。俺はそれを引き受けた。取引は成立だ。じゃあ、報酬は?」
そう、青年は、自分でそう言ったように、正義の味方ではない。
悪のいる場所に、どこからともなく颯爽と現れて、敵を一掃するヒーロという訳ではない。
悪の出現の知らせを受け、即座に出動するような正義の組織でもない。
彼はただ、客の依頼を引き受け、見返りを求める。
肉体的な力は異常な領域に達しているかもしれないが、彼の営みは、本当に、極々普遍的な「ただの人間」のものなのだ。
一言で言えばギブアンドテイク。見返りがあるからこそ、彼は動く。
ならば、彼が受け取る、クロの依頼の「見返り」は。
「流石にクロの分までタダってのは、無いだろう」
口調は相変わらずだが、青年の表情から、笑顔が消えた。
優しげな顔をしているが、その眼差しは真剣そのものだった。
彼は、至って真面目に、死んだ犬から報酬を要求していた。
「その報酬っていうのは……お金ですか?」
杏の疑問に、青年は臆面もなく答える。
「いいや。犬に金が払えるとは、思えない」
だったら、何を。杏はそう口にしようとしたが、それを先読みしたかのように、青年が続けて話す。
「だから、代わりにキミを貰おう」
青年が、杏の頭に手を乗せる。そして、混じりっ気の無い、純粋な笑顔になった。
杏は、そんな青年とは対照的に、開いた口もそのままに、呆気に取られた顔になった。
まだ、青年の言葉が理解できていない。
「え……どういう……」
上手く言葉が出てこず、口をぱくぱくさせたまま、杏は青年の笑顔を見つめ続ける。
「あれだよ、『借金のカタ』ってヤツ。期限無しだけど。キミぐらい可愛けりゃ、問題無しだ」
わざわざ自分が悪者になるような言葉を選んだかのような台詞だった。
それも、いかにも小物臭い、使い古されたようなものを選んでいた。
青年は、杏を「報酬」として、無理矢理この家に縛り付けることを選んだのだ。
「本当……悪い人ですね、あなたは」
この家を出るということに、どれだけの覚悟が必要だったかも知らないで。
後に続く筈だったこの言葉は、しかし、杏の震える喉に紡ぐことは不可能だった。
後には、もはや感謝の気持ち以外は残っていなかった。
「はは、今更気付いた? 初対面は結構ショッキングだったのに」
ふざけているのか、それとも至って真面目なのか、青年が言う。
――本当だ。
ぼろぼろと涙をこぼしながらでは、その一言を絞り出すのがやっとだった。
それでも、杏の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「さあ、いつまでもそんな所に突っ立ってないで、入りなよ」
青年が杏の手を引く。抗うことなく、杏はそれに従い、再び青年の家の内部を眺める。
居間の中央に居座る、高さを調節できるタイプのテーブル。
それを取り囲むように並べられたソファと、いくつかの椅子。
扉を入ってすぐ隣には、キッチンが広がる。
戸棚、電子レンジ、冷蔵庫が並び、その向かい側に、流しと電磁調理器が固定されている。
居間の奥には、キッチンと同程度の空間があり、部屋のバランスを良くしている。
そこには、パソコンが備え付けられ、冷房の行き届き辛いその空間のために、天井にファンが付いている。
キッチンやそのパソコンが置かれている空間とは正反対の位置には襖が立ち、
その奥にも部屋があることを示している。
しかし、青年はその襖を固く閉じ、奥の部屋に入るつもりも、見せるつもりも無いらしい。
上の階には、三つの部屋がある。
階段を上ってすぐの部屋は、杏が使っていた部屋だ。
端の部屋なので、窓が二か所に備え付けられていて、昼間は電気が必要ないくらいに明るい。
隣の二部屋とも繋がるベランダが備わっており、そちら側の窓は壁一面をくり抜いた大きな窓になっている。
その手前には、ベッドが窓と並行に寝かされている。
その隣の部屋が、青年が使っている部屋だ。
真ん中の部屋のため、窓はベランダへと続く大きなもの一つだけだ。
部屋の端には、窓と垂直になるようベッドが設置されていて、その反対側には大きな本棚がそびえている。
そのせいか、部屋は随分と狭く見える。
一番奥の部屋は、現在は使っていないらしい。
青年は物置になっていると言うが、実際はどうなっているのか、杏は見たことが無い。
元々、彼一人で住んでいた訳ではないということが良く分かる広さだ。
それが何を意味するのか、杏にも理解できる。
そして、杏は、その家の「空き」を埋める者として、今度は、反対の意味で深く頭を下げた。
「さ、そっちに座って」
青年が、彼の座る向かい側の椅子を指す。
少し疑問に思ったが、杏は言われるままに、その椅子に腰かけた。
「えと……何をするんですか?」
委縮して座る杏を見て、青年はそれを弛緩させるように、柔和な笑顔を向け、言う。
「面接」
杏の頭上に疑問符が浮かんだ。
それも無理はないだろう。突然こんなことを言われては。
「何の面接ですか?」
率直な疑問を青年にぶつける。
青年は、その単純な質問に、詳細な答を返した。
「なに、晴れて俺のモノになった訳だし、これからは俺の仕事にも協力してもらおうと思ってね。
一応は仕事だし、形式上だけでも、面接ぐらいやっといた方が、面白いし」
最後には彼の本音が出ていたような気がするが、杏には、
「俺のモノ」といった表現の方が気になった。
と言うか、その言葉から先はあまりちゃんと聞き取れなかった。
どうやら、この青年は、そういうことを無意識に口走ってしまうらしい。
「ええと……あの……あなたのモノって……」
赤面しながら、しどろもどろと呟くように青年に問い掛けるが、
青年はまるで意に介さず、「面接」を始めてしまう。
「えー、最初は……そうだな。
えーと、面接官の明無 黒人です。よろしく。
それじゃあ、お名前からどうぞ」
永い、二人の時が動き出した瞬間は、驚くほどに軽いものだった。
「杏ちゃんはさ」
夜。人の消えた地上のどこか、何故か未だに立っている、小さくはないが大きくもない家の中で、
黒人が呟いた。
静かなその家の中では、その声量で十分に杏の耳へと言葉は届いていた。
「何ですか?」
まるでそれを楽しむように、杏も黒人と同じ程度の声で訊き返す。
「いつから俺のことを好きになってくれてたんだ?」
部屋もベッドも、いくつかはある筈なのに、わざわざ同じベッドに二人は寝転んでいた。
黒人が杏に腕枕をしていて、杏は黒人に抱きつくような形で、
互いに息がかかる程、密着した状態になっている。
しばらく考えるように目を閉じていた杏だったが、やがて、閉じた目をそのままに、
答を甘い吐息のように吐き出した。
「分からないです。いつの間にかそうなってましたから」
考えようによっては、何も考えてはいないような答だったが、杏は至って真面目だった。
「そっか。俺は最初っから気に入ってたんだけどな」
そう言って、黒人は杏を強く抱き締めた。
その言葉と行動で、無邪気な笑顔の黒人に対して、杏の顔はみるみる内に紅潮していった。
互いの気持ちを告白してから何年も経つが、二人はいつまでも初々しいままだった。
やがて、夜は明け、明日が来る――。
番外4−18 END
Clock Lock 番外編 了
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