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二両編成の電車
いい天気だった。
誰が最初に言ったのか、誰がそう決めたのか、いい天気と言うのは、決まって晴天だ。
彼は電車に乗っていた。二両編成の、小さな田舎の電車だ。 それは景色の良い山道を、電車にしてはゆっくりな速さで走り抜ける。
車掌は前方から目を離さない。着古してくすんだ色の制服が、この古びた電車と見事に調和している。
乗客は彼一人だった。前の車両の先頭、出発したばかりで熱の無い最前列の座席の端に座り、 景色を眺めている。 決して速くはなく、しかし、人が全速力で走っても追いつけない速度で流れる、緑色の流線の隙間から、 日の光が差し込み、やはり同じように流れていく。
やがて、緑の海の中、小さな電車は駅に着いた。
駅のひっそりとした佇まいは、周囲の緑に溶け込んで、ある種の郷愁感を抱かせる。
電車の両側に備えられた、数少ない扉が開く。
駅員すらいないと思われたその駅で、電車に乗る者がいた。彼は何の気なしにそちらに目をやる。
乗ってきたのは、黒っぽい学生服を着た少女だった。 艶のあるセミロングの黒髪が、吹き込む風になびいている。 黒縁の眼鏡の向こうに見える伏し目がちの瞳は、 しかし、特に悲しみや苦しみといったネガティブな感情を感じさせない。 それでも、その伏せた目は、全体的に黒の多い外見と相まって、彼女に暗い雰囲気を纏わりつかせている。 ただ、その中で唯一、学生服の真っ赤なリボンだけが、周りに彼女の存在を強調している。
彼女は、後の車両の、一番後方に腰掛け、手に持った本を黙々と読み始めた。
出発し、駅を出ると同時に、電車は緑の海を抜けた。
彼らの眼前に現れたのは、前方にそびえる山々だった。 山道を行く電車は、崖に差し掛かっていた。 電車は速度を少し落とし、崖の曲線に沿って走り続ける。
彼は後の車両をちらりと見てみた。
学生服の少女は、本を読む手を止め、暫くの間、崖の下を見下ろしていた。
彼は、視線を外の景色へと戻し、雄大に連なる山々を見上げた。
崖から離れて暫くしてから車掌のアナウンスがあり、やがて、次の駅へと辿り着いた。
やはり駅は寂れた雰囲気が印象強く、 これはこの路線全ての駅に共通する寂しさだということを理解させられる。
電車の扉が開くと、背の高い青年が扉をくぐり、彼と同じ、前の車両へと乗り込んできた。
青年は、両方の耳にイヤホンを着けている。携帯音楽プレイヤーだろう。 静かな車内にもかかわらず、音漏れは一切なく、随分と小さい音で聞いていることが分かる。
小さな鞄を肩にかけ、ぼさぼさの髪の毛を掻き、反対側の扉の方へと足を進める。 他に空いた席はいくらでもあるというのに、青年はそのまま、扉と座席の間にある壁に寄りかかり、 外の景色へと目をやったまま、その場からは動かなくなった。
後の車両に座っていた学生服の少女が、一瞬、その青年の方へと目を向けたが、すぐに読書に意識を戻していった。
妙な偶然か、その瞬間、彼もまた、青年と少女の両方に視線を向けていた。 まるで示し合わせたかのように二人が視線を動かしたタイミングが重なったのだ。
人のいる場所では、この奇跡とも呼べるようなタイミングの一致は、思いの外よく起こる。
大袈裟な音と共に、それに見合わない小さな振動が彼らの体を揺さぶり、二両編成の小さな電車は出発する。
外の景色を見るのに飽きた彼は、車内の様子を見回してみた。
壁は黒ずんだ黄色に近い色をしており、貼り付けられた広告も破れて黄ばんでいて、 この電車が人を運び始めてからどれだけの時間が経ったのかがよく分かる。 朱色をした座席は、古い車両には似合わず、意外と清潔さを保っている。
後方を見てみると、車両を通して、その窓から背後の景色を眺めることもできた。 電車が通って来た線路が、速度に合わせて遠ざかり、消失点を目指して流れていく。
暫くの間、その光景を眺めていると、座っていた少女が彼の様子に気付いたのか、頭を上げ、彼を見た。
思わず彼もそちらの方へと目をやる。
すると、少女は意外にも、彼に会釈をするように笑顔を見せた。彼もつられて口元を緩めた。
その後、電車はいくつかの駅に止まったが、どの駅にも乗客はいなかった。 途中、イヤホンを着けた青年が、これまでに止まった駅の中で、最も小さく、錆びの浮いたような駅で降車した。
終点も例外ではなく、人気の無い、今にも倒壊してしまいそうな古びた駅だった。
学生服の少女は、電車を降りると、そのまま何処へともなくぱたぱたと走り去ってしまった。 彼も暫くはその姿を見送っていたが、すぐに見えなくなった。
少女の姿が消えたのを確認すると、彼も大きく伸びをして、座席から立ち上がった。 終点に着いてから、結構な時間が経っていたが、彼は慌てる様子もなく、大きな荷物を持って、 のんびりと電車から降りる。
降りる際、車掌がこちらを一瞥もすることもなく、言った。
「ご乗車、ありがとうございました」
彼は、一度だけ電車の方を振り返り、そのまま、駅を後にした。
最後にたった一言、お元気で、とだけ告げて。
いい天気だ。
こんなにも気分が良いのだから、今日はきっと、いい天気なのだ。彼はそう考えた。
彼は電車の座席に座っている。
二両編成の小さな電車は一向に動かない。この先も、永遠に動くことはないだろう。
彼がその狭い車両の中を見回してみる。
朱色の座席には、所々に雑草が生え、花が咲き、庭園のようになっている。
窓は誰かが割ったのか、それとも取り外されたのか、 外からの風が、かつては「窓」だった穴から吹き込んでくる。
壁は蔦や蔓が蹂躙し、緑色が基調になっている。
線路は、既に雑草が群を成し、覆い隠してしまっている。 これでは、電車が動いたとしても、走ることができないだろう。
何をするでもなく、電車の中で物思いに耽っていた彼だったが、 日が暮れる頃には、電車から降り、地に足を着けた。
最後にあの電車に乗ったのは何十年前だろうか。
彼は少し考えたが、とうとう思い出すことはできなかった。
星空の下、草木に覆われた線路を辿り、彼は小さな二両編成の電車を背に、何処かへと立ち去った。
END
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